幽霊や妖怪など、超自然的な存在を好んで描き続けた小説家・泉鏡花。『泉鏡花〈怪談会〉全集』(東雅夫編、春陽堂書店)は、そんな“おばけずき”の文豪が携わった明治・大正期の怪談イベントを、当時の単行本・雑誌記事を復刻することで再現した450ページの大著。往事の怪談ブームの盛りあがりを今日に伝え、鏡花と怪談の関わりをあらためて浮き彫りにするマニア感涙の好企画である。外出自粛が要請された今年のゴールデンウィーク、ページ上で和やかにくり広げられる怪談会の光景に、大いに心慰められたものだった。
本書の半分を占めるのは、明治42(1909)年に刊行された書籍『怪談会』の復刻だ。鏡花をはじめ、劇作家の小山内薫、日本画家の鏑木清方ら錚々たるメンバーが、とっておきの怪談を順に披露している。なあんだ百年前の怪談か、とあなどってはいけない。目も鼻もなく顔面が赤く剥げた幽霊、機関車を取りまく死者の悲鳴、怪異が頻発する屋敷……などなど、すれた現代人をも戦慄させるエピソードを多数含んでいる。
なかでも小説家・柳川春葉が披露した「青銅鬼」はインパクト抜群。緑青を塗りたくったような顔の男に遭遇した、というだけの話なのだが、一読忘れがたい気味悪さがある。明治期を代表するハイレベルな怪談集として、今なお珍重に値しよう。
後半に収められた「怪談百物語」「怪談会」は雑誌に掲載された怪談特集の再録。前者には柳田國男、後者には芥川龍之介が参加しており、おばけずきサークルの広がりを感じさせる。なおリスペクトし合いながらも、微妙な距離感を保っていた鏡花と柳田の関係については、巻頭の京極夏彦インタビューが示唆に富んでいる。当代きってのおばけずき作家である京極の卓抜な鏡花論を読むためだけにも、本書は手に入れる価値がある。
明治から大正にかけての怪談ブームについては、本書の編者・東雅夫の研究によって全貌が明らかになりつつあるが、知れば知るほど面白い時代である。才能ある文人墨客が揃って怪談に興味を示し、同時多発的にこのジャンルの重要作・傑作が刊行された明治末の数年間は、まったく壮観というよりない。
鏡花の時代に負けず劣らず、怪談会は今日でも大盛況。毎週、各地のライブハウスで怪談会が催され、市井のおばけずきの交流の場となっている。群馬県在住の作家・戸神重明が2015年から開催している「高崎怪談会」もそうした地域密着型怪談会のひとつ。『高崎怪談会 東国百鬼譚』(戸神重明編著、竹書房怪談文庫)は、すでに20回以上を数える同イベントで披露された話を中心に編まれた怪談集である。
しみじみとした味わいの逸話あり、後味の悪い都市型怪談あり、7人の執筆者からなる共著だけに、恐怖のツボも語り口もさまざま。その自由さがライブらしさを印象づける。個人的には、養蚕が盛んだった同県ならではの「蚕よ、飛べ」(戸神重明)がひときわ心に残った。自宅にいながらにしてバーチャル怪談会が楽しめるこの本で、イベント自粛中の渇きを癒やしたい。
深志美由紀『怖い話を集めたら 連鎖怪談』(集英社文庫)は、官能・性愛小説のジャンルで人気を誇る著者が初めて手がけた怪談小説。恋愛作家である主人公・いつきは、旧知の編集者に依頼され、怪異を扱ったスマホゲームの開発に携わることになる。取材のため多くの怪異体験者に会い、怪談を文章化してゆくいつきだったが、次第に奇妙な夢に悩まされるようになり……。
異なる口から次々と不気味な体験談が語られてゆく本作は、岡本綺堂の名作『青蛙堂鬼談』の流れを汲む百物語形式のオムニバス怪談小説である。実話を下敷きにしていると思しい生々しい挿話といい(呪いを扱った「御嫁様」が白眉!)、作者自身と重なる主人公のプロフィールといい、あえて虚構と現実の境目を曖昧にしている点に特色がある。ツボをおさえた恐怖演出には、ホラーファンとして大いに快哉を叫んだ。力ある書き手の“越境”を歓迎したい。
ところで『泉鏡花〈怪談会〉全集』と『高崎怪談会 東国百鬼譚』には、狐狸に化かされた話や、病院を舞台にした怪談など、類似したエピソードがいくつか収められている。両者の差について思いを巡らすうち、怪異について学んでみたくなった。気鋭の歴史学者・木場貴俊による『怪異をつくる 日本近世怪異文化史』(文学通信)は、日本人が何をどのように怪異と認定して(つくって)きたかを、主に江戸期の文献をもとに考察したスリリングな論文集。
各時代の社会的・文化的状況に沿って属性を変化させてきた妖怪ウブメに代表されるように、怪異は人の暮らしと密接に関わってきた。「人がいて初めて怪異は成り立つ」という本書の視座は、怪談を読んだり聞いたりする際にも、有益なヒントを与えてくれそうである。