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空腹感も分からない 朝倉かすみ

 来たる八月、六十歳になる。俗にいう還暦である。この歳(とし)になっても「満腹」の正解あるいは平均値が分からないのはなんとなく遺憾である。よその人たちは、どの程度お腹(なか)がふくらんだと感じたら「満腹」と口にするのだろう。そしてその満腹感は外出時と在宅時とで変わりはないのか。食事をするときは、常に、真に、空腹なのか。

 白状すると、わたしは満腹感が曖昧(あいまい)であるのと同様、空腹感も曖昧である。いわば合わせ鏡だ。胃に隙間があると感じると、隙間の大小にかかわらず、わたしは「お腹が空(す)いてる」ことにする。つまり、「もう動けない」状態以外は空腹にしてしまうのだ。

 こうなると、大体いつでも食べ物ウェルカムだ。お腹が空いている、という立派な理由があるので、わたしはいつでも食べたいときに食べたいだけ食べられるのだった。

 なぜこのようなシステムができたかというと、それはわたしが何か食べたくなったときに鵜(う)の目鷹(たか)の目で自分の中の「空腹感」を探したからである。お腹が空いたから食べる、のではなく、食べたいがためにあるかなきかの「空腹感」を引っ張ってきたのだった。でないと大手を振って食べられない。わたしは、いかほど不格好でも「(空腹だから)仕方なく食べる」という体裁を整えたいのである。

 食べることに対する恥ずかしさや疾(やま)しさのようなものがあるのだった。

 わたしは、たくさん食べたがるこどもだった。食べることが楽しくて嬉(うれ)しくて、食べながら鼻歌を歌ったほどである。親は、鼻歌は行儀が悪いと厳に戒めたものの、娘が食べ物にガッつくこと、ドンドン食べることに関しては「まったくウチの食いしん坊は」と笑いながらからかうだけだった。そうしているうち、わたしは、次から次へと欲しがってガツガツ食べるのは恥ずかしいのだと覚えていった。

 それでもわたしはやっぱりたくさん食べたくて、お腹いっぱい、動けなくなるまで食べたくて、食べ始めると、動けなくなるまで一気に持っていきたいから、そうでないと食べた気がしないから、貪(むさぼ)り食うというふうになってしまって、それはいかにも汚らしくて、醜いようすで、恥ずかしくて堪(たま)らなくて、でも、やめられなくて、食べることへの後ろめたさが段々(だんだん)と積もっていったのだった。

 長期にわたる食べることへの屈託というか、わだかまりというか、劣等感というかそういうものを初めて書いてみたのだが、どうなんだろうか、共感してくださる方はいるんだろうか。

 とにかく、わたしは食習慣を変えたい。あくまでもカンだが、まともな満腹感と空腹感を覚えるには、それがもっともよい方法だと思うのだ。=朝日新聞2020年7月18日掲載