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最果タヒさんの絵本「ここは」 ここは、ぼくのまんなかです——世界と自分を発見する瞬間

文:澤田聡子、写真:河出書房新社提供

「世界が更新されるような」視点を

——『ここは』は最果さん初の絵本ですね。昔から絵本を作りたいという思いはあったのでしょうか。

 子どものころから絵本が好きで、4歳くらいのころ「ゾウとアリの友情のおはなし」を自分で考えたこともあります。でも、絵本が好きだからこそ、「作ってみよう」となかなか思えませんでした。作りたいけれど、「これだ!」と思う瞬間まで待ちたかったのです。

 絵本を作らないかと声をかけてもらったのが5年ほど前で、そこから『ここは』を作るまで長く絵本について考えていました。最初は、現実とは全く違う別世界を、絵本で見せなくてはと思って、でもどうしてもぴんとこなかったのです。たぶん、そのとき、私は絵本の中にあるものを子どもに一方的に手渡そうとしていたのだと思います。別世界や夢を大人が作って子どもに与える、とどこかで思っていて、そのことに違和感がありました。自分が子ども時代に読んだ絵本の感触と全く異なっていたからだと思います。

『ここは』(絵・及川賢治/河出書房新社)より

 たとえばロングセラーの絵本『しろくまちゃんのほっとけーき』(こぐま社)。大人になって読んでみるとだれがどの言葉を言っているのか、ページごとに視点が変わって、不思議な読後感があります。でも、その「自在さ」こそ、子どもにとってはリアルなんだろうなと思うんですよね。

 小さな子が絵本を読むとき、最初は「この絵がおいしそうだから好き」くらいの感じなんだけど、あるとき急に視野が広がって「あっ、こういうおはなしなんだ!」と気づく瞬間があります。それはお話の流れとは違うのかもしれないけれど、でも子ども時代の私にとっては、それこそが絵本の醍醐味でした。絵本は世界と同じようにそこにあって、何度も発見し、発見によってより深くその世界に潜っていく。絵本は書き手から子どもへの一方通行ではなくて、子どもの発見こそが絵本を豊かにしているのだと思います。繰り返し読むうちに、1年後の自分、3年後の自分……「何人もの自分」がそのときどきで感じた面白さが蓄積されていく。それ自体が絵本の軸となっていくのだと思ったんです。そう気づいたとき、「絵本を書く」という営みがやっとスタートできた気がしました。

——絵本は「ここは、/おかあさんの/ひざのうえです。」という一文から始まります。「おかあさんのひざ」に座る小さな「ぼく」がいるのは、「まちのまんなか」であり、「こうえんのちかく」でもある。「テレビのまえ」でもあり「やまのふもと」であり、そして「うちゅうのまんなか」でもある……近くに寄ったり遠くに引いたり、視点がページをめくるごとにどんどん変わり、世界の広がりを感じさせます。

 絵本が全然書けないでいたとき、ツイッターで谷川俊太郎さんが新たに作詞を手がけたという「いるよ」(NHK『おかあさんといっしょ』より。作曲・細野晴臣)という歌が、話題になっているのを見て、歌詞を調べたんです。「昼間だから見えないんだけど、お星さまは空にずっといるんだよ」という内容の歌なんですが、その瞬間、「そうだった、“本当のこと”でいいんだった」って思ったんです。

『ここは』(絵・及川賢治/河出書房新社)より

 それまで私は、ファンタジーや異世界の物語を、一方通行で読み手に届けようとしていました。でも、「本当のこと」こそが、私が幼いころから絵本の中で出合って好きだと思っていた部分だった、とそのとき気づいたんです。本当のことだけど、まだ気づいていなくて、気づくと世界が更新されて見えるようなそういうもの。私は小さなころから、絵本でも日常でも、何かに気づくことが好きでした。月はだんだん大きくなって、また欠けていくんだ、とか。教えてもらうのではなくて、自分で空を見て、「あれ? もしかしてそうなのかな?」と気づく瞬間、なによりもワクワクしました。谷川さんの歌詞はそのことを思い出させてくれたんです。

 谷川さんの歌詞を読んですぐ、「ここは」という言葉がぽんっと浮かびました。そこからは、ほとんど止まることなく、最後の一文「ここは、/ぼくのまんなかです。」まで一気に書き上げました。3年くらいずっと悩んでいたのに、谷川さんの歌を聴いた5分後には完成していた(笑)。書き上げたものを読み返すと、自分でもしっくりきたので「これは絵本として成立しているかもしれないな」と思いました。

果物の種みたいに「まんなか」に

——及川賢治さん(100%ORANGE)の絵も魅力。ページをめくるたびに発見があり、親子ですみずみまで読みたくなります。

 100%ORANGEさんは昔から好きで、引き受けていただけたときは本当にうれしかったです。言葉を書いてしまった後は、そこにどんな絵が合うのか、私には想像がつかないところもありました。でも上がってきたラフを見て、「これしかない!」と思ったんです。

 言葉は子どもの「発見」そのものにつながろうとして書いていました。及川さんの絵には、その発見の舞台である「世界」そのものが生まれていて、その瞬間にこの本は完成したと思ったんです。本当に幸せな瞬間でした。「ぼく」が暮らす街の描き込みの細かさや、何ページにもわたって登場する風船やロケットに夢中になれますよね。及川さんのアイデアと絵の力で、世界そのものにワクワクできる美しい絵本に仕上がったと思います。

 私が特に好きなのは「そらのした/でもあるね。」という街全体を俯瞰するシーン。視点が空にいる鳥よりも高くなりますが、事実として世界を見下ろすというより、子どもが「わあ!」と言いながら見下ろすときの驚きや喜びを通じて見える景色が絵となっていて、すばらしいなと思います。

『ここは』(絵・及川賢治/河出書房新社)より

 子どものころ、低いところから大人を見上げると、「でかっ!」と奇妙に大きく感じたこと。自分しか通れない狭いところにもぐったときのニヤニヤするような楽しさ。及川さんの絵には、そういう「子どもの感覚」がすみずみまで宿っている。大人が読んでも、子ども時代の記憶が鮮やかによみがえるような絵ですよね。

——家にいても精神は自由に遊べる。一方で、安心できる「ここ」は常に自分のまんなかにある。読む人によって、受け止め方はさまざまだと思いますが、コロナ禍のいま、この絵本が出版されたことに大きな意味を感じます。

 自分自身のことって大人も子どもも実はそんなに把握できていないんじゃないでしょうか。不安になることはたくさんあるけれど、果物の種みたいに「まんなか」に自分がいることを書きたかった。自分の視点でしか見えない景色があり、自分にしか聞こえないものがある。その時点で自分が自分であることを肯定できるんじゃないか……と、最近よく考えます。

 自分が何を考えているのか、そのままはっきりとことばにするのが、どんどん難しくなっているのかなと感じることも多くて。たとえば、一口に「コロナ禍」といっても、それぞれが抱えている痛みは共有しがたい。「自分よりもつらさを感じている人がいる」と思って、発言をやめてしまう瞬間もあると思うんです。もちろん他者への思いやりや社会の在り方は重要なんですが、同時に「自分の視点でしか見えないもの」も大切にしたい。他者に理解や共感をされなくても、存在としてそこにある「自分」については否定しないでほしいなと思っています。

世界にはワンダーがいっぱい

——絵本で初めて最果さんの世界に触れるお子さんもいると思いますが、どのように楽しんでほしいですか。

 私、子どもにあまり懐かれたことがないんですよ。どうやって接していいのか適度な距離感が全然分からなくて、子どもも「こいつ、何がしたいねん」という目で見てくる(笑)。

 でもこの絵本を出してから、思いがけない反響がありました。「子どもがページをめくるごとに風船を追いかけて読んでいます」とか「何度も読んでとせがまれます」とか、お子さんがいる仕事相手や知人からの感想をたくさんいただいたんです。それが本当にうれしくて。絵本を通じて初めて子どもたちと心が通い合ったかも!なんて実感もありました(笑)。

 今まで子どもたちと向き合っても、何か楽しませてあげなくちゃと思ってしまって、うまくいかなかった。本当は子どもたちは、「楽しむ」ことに関して私よりずっとうまくて天才的なのに。当たり前だと思ったり、見逃したりしてしまっていることを、一つ一つ発見して、面白がることができる。一方通行ではなく、彼らのそういう部分を信じてこの絵本を書けたから、心が通い合ったように思ったのかもしれません。

『ここは』(絵・及川賢治/河出書房新社)より

 子どものころ、何を見て面白いと感じたか。そういうことをたくさん思い出しました。川の流れが一方通行であること。お魚がときどき跳ねること。宇宙がこんなに広がっているということ……。世界にはワンダーがいっぱいあったし、それは今も変わらないなって。

 子どもにとっての「発見」の鮮やかさのようなものを、大切にしたいと思いました。絵本の文章も書き始めてしまえば、詩の言葉のように書いていくのですけど、それでも、絵本を書き始めるきっかけとしての「気づき」は大切にしていたい。自分自身がハッとなるような発見がエンジンになって、私に絵本の言葉を書かせてくれるのではないか、と。いろいろ考えをこね上げているときは多分うまくできなくて、突然ピーンと「ワンダーのかたまり」が降りてきたときに面白い絵本がつくれるのかな、と今は思います。