鳩山郁子というマンガ家をご存じでしょうか。30年以上のキャリアをもつ作家ですが、作品は10冊ほどなので、マンガ界のマイナー・ポエットというべき存在かもしれません。
しかし、その作品世界は、独創的なタッチと空気とでぴんと張りつめ、ひと目見ただけで鳩山郁子と分かる輝かしい個性に染めあげられています。
主人公たちはいつも極めつきの美少年。しかし、月並みな性的妄想で膨らまされたいわゆる「耽美(たんび)」なマンガとはまったく異なります。むしろ、性のめざめの直前、もう子供ではないが、まだ大人にもなれない、ほんの一瞬だけの、はかない、それゆえにこの世ならぬ美しさで花開く少年たちを描いているのです。その意味で、稲垣足穂の文学と通じあうものが感じられます。
鳩山郁子のマンガはふつう自作の物語を基に作られますが、今回ご紹介する新作『羽ばたき』は原作があります。26歳の堀辰雄が肺結核で長野の富士見高原療養所に入所した1931(昭和6)年に発表した同名の短編小説です。少年たちの友情と死の惨劇を描いたミステリアスな幻想小説で、これが鳩山郁子の作品風土とこの上なく濃密な親和力で結びついているのです。
冒頭の一文はこうです。
「丘の上のU塔には、千羽の鳩が棲(す)んでいた。それらの鳩がいちどきに飛翔(ひしょう)すると、空は真暗になった」
その情景を絵にする鳩山郁子の筆致といったら、これぞ完璧なアルティザン(職人)の技! 冒頭の鳩の顔のクローズアップに始まり、様々な姿態で黒い空を埋めつくすおびただしい鳩たちの造形の正確さ、そして、U塔の円筒形の内部と、遠い鳥影と、すぐ手前の鳩の羽根を仰角で描きだす空間の深み。絵の力に心底酔わされます。
物語は、怪盗ジゴマを真似(まね)る遊びに興じていた少年ジジが、母の死をきっかけに、鳩を率いる本物の盗賊になり、そうして迎える運命のいたずらを記しています。堀辰雄の想像力豊かなファンタジーが楽しく、同時にじつに哀切なのですが、鳩山郁子のペンタッチとコマ割りの技巧が冴(さ)えまくり、なかでも、女装したジジが遊園地を駆けめぐるように、不審な男から逃げる場面などは、オーソン・ウェルズの映画にも匹敵する力動感を出しています。
作者の好きな廃墟(はいきょ)の塔、ランプの炎、迷路のような石畳といったゴシックな装置に対比して、遊園地、サーカス、ローラースケートなどのバロック的祝祭性が効果を上げ、全編にたゆみなく、目の愉(たの)しみを漲(みなぎ)らせています。=朝日新聞2020年8月19日掲載