平田オリザが読む
陸上の百メートル走で、誰か一人が十秒を切ると、相次いで記録の壁が打ち破られていくように、二十世紀初頭、漱石、藤村によって完成された言文一致体は、一九一○年代にはすべての若い文学者が当たり前のように使いこなすようになった。日本の近代文学は急速な発展を遂げ、ほぼ現代に至るまでの基礎が、この時代に形成された。
その代表格は今も芥川賞に名前を残す芥川龍之介だろう。芥川はまた、日本文学に「短編小説」というジャンルを確立した。
旧制一高から東京帝国大学と超エリートの道を歩んだ芥川は、すでに二十代前半で代表作となる「羅生門」「鼻」といった名作を書き、大正の文壇をリードする存在となった。出自も経歴も(そして、その抱える苦悩も)似ている夏目漱石に師事し、その後継者と目された。
初期の作品は「王朝物」と呼ばれ、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。
一九二一年には初めて中国を訪問。しかし帰国後から心身の不調を訴えるようになり、作風にも変化が起こる。
「河童(かっぱ)」は、その芥川の最晩年に書かれた。発表は一九二七(昭和二)年。彼はこの年、三五歳の短い生涯を自ら閉じる。
この作品には、河童の国に迷い込んだ思い出を語る狂人の言葉を借りて、当時の社会についての、様々な風刺がちりばめられている。たとえば、主人公が河童の音楽会に出かける場面。突如、最後列の巡査から「演奏禁止」の声がかかる。この二年前、治安維持法が成立した。時代は、大正デモクラシーから少しずつ混迷の時を迎えていた。
よく言われることだが、漱石の死(一九一六年=大正五年)が明治の終わりを示したように、芥川の死は、短い大正という時代の終焉(しゅうえん)を象徴した。遺書にあった「僕の将来に対する唯(ただ)ぼんやりした不安」を、同時代あるいは後世の人々は、時代の閉塞(へいそく)感、しのびよるファシズムの影と重ね合わせた。=朝日新聞2020年10月3日掲載