桜庭一樹が読む
わたしたちの人生は何でできてるんだろう? 勇気を出して一歩踏み出し、新しい扉を開いた経験? でも、実はそれと同じぐらい、怖気(おじけ)付いて実行できなかったことからもできてるんじゃないだろうか。後々振り返れば、きっとみんなそう……。
今作の主人公は、ロシアの田舎町でひっそり暮らす没落貴族の三姉妹。いつか故郷モスクワでの華やかな暮らしを取り戻そうと願っているが、何か大きな力が都会に連れ去ってくれることもなく、己の力で町を飛び出すこともできず。静かな絶望の前で立ち竦(すく)むばかり……。
著者は農奴解放前年の一八六〇年生まれ。父方の祖父は農奴だった。医学生の傍ら、家族の生活費のために新聞にユーモア小説を発表していたが、文壇の重鎮から激励の手紙をもらい、一念発起。本格的に文筆家を目指す。三十歳の時、流刑地サハリンに渡り、悲惨な実態のルポを書き、高く評価される。以降、閉ざされた空間で苦悩する人々を多く登場させるようになった。
今作の登場人物たちは、知的だが実際の行動力には欠けた性質として描かれている。わたしは二十代で読んだとき、著者が皮肉な目で突き放して書いていると感じた。でも今回再読すると、そうじゃなく、自らの“運命的な欠点”と、それが招いた現実を、ある時ついに自覚することで次のフェーズが開くという、個人史の歴史的瞬間を描く凄(すご)い作品なのだと気づき、そうか、だから名作だったんだとブルブルッと震えた。また、集合無意識の上では、過去の人々の叶(かな)った夢も、結局は叶えられなかった夢も、同じように未来社会によい影響を与えているのかもしれないとも感じられた。
実際、どうも最近の上演ではそのような解釈による演出も多いと聞く。時代や読者の年齢によって万華鏡のように姿を変えるのもまた、古典が古典たりうるきらめきなのだ。
著者は四十三歳で、もう一つの代表作である『桜の園』を完成させ、九カ月後、病で亡くなった。=朝日新聞2021年5月1日掲載