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アガサ・クリスティー作家デビュー100年 「記憶はウソをつく」から読み解く、カズオ・イシグロとの共通点

文:川口あい

2020年はクリスティー記念イヤー

 クリスティー作品のトリックの多彩さは言うまでもない。なかでも「記憶」を手法として使うときの描写は情緒的ともいえる。

 心理学者の榎本博明の著書『記憶はウソをつく』によれば、記憶には、あとから書き換えられたり捏造されたりする特徴があるという。同時に人間には「想像しイメージしたことが、時を経るにつれて現実に経験した出来事の記憶の中に紛れ込んでいく」という「記憶のゆらぎ」に関する法則がある。あえてそうした「記憶」の曖昧さに耽溺する人間の哀しい性や、そこから生まれる思い込みや自己欺瞞が、クリスティー作品においても、事件の背景や犯人の動機に深みをもたせる。

「記憶」は嘘をつく

 「記憶」が物語の核となるクリスティー作品の代表例といえば、「五匹の子豚」と「象は忘れない」だろう。

 「五匹の子豚」は過去の毒殺事件を、関係者の証言をもとに再捜査する物語だ。ある女性が夫を毒殺し、獄中で亡くなった。しかし本当は無実だったという告白の手紙が、16年の時を経て成長した娘の元に届く。裁判も終わりすでに解決とみなされた事件だが、ポワロは再び過去への扉を開くことになる。

 本作のタイトル「五匹の子豚」はマザーグースの童謡からとっているが、アメリカ版では「回想の殺人(Murder in Retrospect)」となったように、証言者のナラティブによって事件の概要が浮き彫りになっていく仕組みだ。

 あるひとつの事象、つまり「画家の男性が毒殺された」ことだけは変わらない。しかしそこに対するアプローチや見え方は、人によって異なる。それぞれの人間が自分の視点で記憶をたどり過去を回想すれば、そこには「各々の事実」が介在することになる。

 作中で、「事実というのは、誰もが認めるものを指す」「そうです。だが、事実の解釈となると、またちがってきます」と表されるように、人間の記憶は曖昧で頼りなく、誰もが自分なりのフィルターを介して事物を見ているからだ。

 本作ではそうした「信頼できない語り手」のような文学的手法が使われながらも、事件解決のための客観的事実が丁寧に汲み上げられ、重厚なミステリーとして真相に結実する。

 もう一作の「象は忘れない」も、過去の事件を掘り起こす物語だ。ある女性の両親が心中した事件について、「父が先に母を殺したのか、それとも逆だったのか」という死のトリガーをめぐり、ポワロと推理作家のオリヴァがその謎に迫る。

 タイトルは”An elephant never forgets”(象は決して忘れない)という英語のことわざに由来する。象はとても記憶力がよく、過去の恨みを忘れない生き物だという。人間もまた、過去の妙な出来事を覚えていたりする。ふとした違和感、振り返ってみて気づく意味。それらが表出される「象たち」の追想をまとめながら、ポワロは真実に近づいていく。

 そして本作でも「五匹の子豚」と同じく、記憶の不確実性が言及される。(実際に作中でも、過去の殺人事件を究明する例として「五匹の子豚」事件のエピソードが言及される)
オリヴァーのセリフ──「記憶。記憶のある人ならいくらでもいましたわ。ただ困るのは、記憶はあっても、それはつねに正しい記憶とはかぎらない」──にあるように、あらゆる関係者の回想を聞くほど疑問は大きく膨れ上がる。信用できない事実、ふとした噂話。ただそれらのなかにも真実の糸はひっそりと繋がっている。

2017年10月12日、ノーベル文学賞に選ばれ、ロンドンで記者会見するカズオ・イシグロさん(石合力撮影)

「記憶」は分厚いレンズ

 そんなクリスティーの影響を受けていると公言するのが、2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロだ。氏のほとんどの作品では「記憶」がモチーフとなっている。

 なかでも著名な作品として、日本でもドラマ化された『わたしを離さないで』がある。ディストピアな世界観のなかで登場人物らが「記憶」を頼りに、自身の存在理由やルーツを模索する作品だ。

 作中では大げさなほどに「記憶」が描写される。それは登場人物たちがクローンであるという枷を背負っているからだろう。自分たちも普通の人間と何ら変わらないという静かな主張が、悲しくなるほど詳細な「記憶」の描写に見え隠れする。

 さらに5作目の長編『わたしたちが孤児だったころ』については、イシグロ自身「アガサ・クリスティーのパスティーシュ(模倣)である」と語るほどで、物語の装置として使われる「記憶」の手法に重なる部分がある。本作では(まさに)探偵となった主人公・バンクスが、過去を思い返し、ときに補完しながら、自分にとっての真実を見つけ出そうとする。

 バンクスは、幼少期に上海の租界で暮らし、両親の失踪によって孤児となった。成長して探偵となり、あらゆる事件を解明しながら名声を上げ、再び上海の地へと舞い戻るが、過去をたどるうちに新たな事実に気づく。

 彼もまた「信頼できない語り手」の代表例だ。執拗な過去の描写で記憶を補完するような演出も、前述したクリスティーの回想殺人にある「記憶の不確実性」に類似する。作中では、断片的で曖昧な記憶を頼りに自己欺瞞の語りが展開され、回想と現在のシーンが入り交じる。そして読み手は早晩、気づくだろう。仔細につくりこまれた主人公の妄想世界に陥っていると。

 こうした「記憶」の曖昧さや不確実性は、人間の理不尽さを表象する。これらが物語を読み解く醍醐味と相まって、さらなる深みを味わえるのだ。

(Photo by Getty Images)

「正しい記憶」のパラドックス

 成長したバンクスは「ほんの2、3年前なら自分の心の中に永遠に染み込んでいると思っていた」上海で過ごした子供時代や両親との記憶が消え始める。

 「わたしがまだ覚えている思い出になんらかの秩序をもたせようとしている今夜でさえ、どれほど多くの思い出がぼんやりとしたものになってしまったかに改めて驚いている」と、おぼろげな記憶をなんとか掘り起こそうとする。しかし、その描写さえ信じていいかはわからない。思い出すという行為を介すことで、事実はフィルタリングされてしまうからだ。

 イシグロは5歳のとき、家族とともに故郷である日本を離れイギリスへ渡った。渡英は一時的であり、いずれ日本に帰国すると思って生活をしていたそうだが、それは実現しなかった。そして成長するにつれ、自身のアイデンティティーのルーツを探るように日本文学や映画に触れるようになる。そこに描かれる日本の様子をもとに、おそらく自覚的に「記憶のなかの日本」を補完した。その模索が本作にもつながっていると考えられる。

 榎本によれば、人間は「記憶と想像の間には明確な境界線は引けない」という。ある記憶を頭のなかで思い描いている時点で、その境は曖昧になる。つまり「正しい記憶」など、この世には存在しないということだ。

私たちは「忘れる」ことができる

 物語の後半、旧友に再会したバンクスは言う。「人はノスタルジックになるとき、思い出すんだ。子供だったころに住んでいた今よりもいい世界を。思い出して、いい世界がまた戻ってきてくれればと願う」

 記憶の補完やゆらぎを受け入れることは、人が人として生きていくために必要な習性なのだ。

 戦争、自然災害、疫病──歴史上あらゆる困難が、世界を、私たちの人生を変えた。今も変わらず、常に新たな壁が立ちはだかる。だが私たちはその経験を、記憶を、どれだけ対峙し、受け止め続けることができるだろうか。風化にあらがい、教訓を後世に伝えることが大事な一方で、記憶の風化と変化もまた、日々生きる人間にとって避けられないことでもある。

 そして私たちは記憶を書き換えたり忘れたりしながら、なんとか正気を保って生きていく。そんな悲しくて、でも愛おしい人間の真理が、両者の作品から浮かび上がる。