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【東日本大震災10年】少しでも関わった地は忘れられない 作家・古川日出男さん寄稿

被災地を歩き、見た風景=古川日出男さん撮影

福島を歩き雨に濡れたノート

 この何週間か、誰もが十年前の悲劇を思い出そうとしているように感じる。だけれども、私たちは当然のように去年よりも今年のことを、昨日よりも今日のことを意識の中心に置いていて、そして明日のことや来年のことを考えるために、なかば引き換えにするように、一昨日の誰かとの会話を忘れ、一昨年のどこか日本の遠いところでの出来事を忘れる。それを私は非難すべきだとは決して思わない。

 去年の七月二十四日は「スポーツの日」という祝日だった。その前日から私は郷里の福島県内を歩いていた。歩行開始の六日め、つまり七月の二十八日に東北地方は大雨に襲われた。私はポンチョを着て、下にも防水のパンツを着用していたのだが、それでも歩いているとびしょ濡(ぬ)れになった。が、この大雨は幸いなことに人的被害を出さず、だから人びとの記憶からはあっさり忘れ去られた。私はといえば、リュックに収納した取材ノートまで濡れてしまった体験から、忘れようにも忘れられないでいる。その取材ノートの紙を一枚一枚、泊まったホテルの部屋でドライヤーを用いて乾かしたのだった。

 前述した「スポーツの日」というのは東京オリンピックの開会式となるはずだった日であり、私は、「復興五輪」という謳(うた)い文句が被災地の人たちにどう受け取られているのかを知りたいと、荷物を背に負って歩いたのだった。福島には、郡山市や福島市を縦断する内陸部の国道4号線と、太平洋岸を縦断して東京電力福島第一原発にも近い国道6号線という、二つの大動脈がある。一部区間を除けば、そこは歩ける(歩こうと思えば)。東京オリンピックに臨むアスリートたちに敬意を表して、私は自分でも肉体を酷使して、この二つの国道を踏破しようと考えたのだった。一年半前から計画を立て、去年のオリンピックは延期となったにもかかわらず、やはり出発した。

 そして、たとえば歩き出して六日めに、そういう大雨にあったのだった。熱中症対策は取っていたのだが、「雨に冷やされて、凍える」という状況は想定していなかった。そのようなアクシデントこそは、私の記憶に克明に何かを刻んだ。一日ごとの忘れられない人との出会いや、出来事を。

被災地を歩き、見た風景。福島県双葉町の帰還困難区域内=古川日出男さん撮影

道の駅で鳴った地震速報

 たとえば七月三十日には、私は福島県中通りの最北の自治体・国見町にいて、午前中に道の駅「あつかしの郷(さと)」のトイレを借りた。と、私のスマホが緊急速報のあの旋律を鳴らした。地震だ! 周囲でも、何人もの携帯電話が鳴っていた。メッセージを確認する――「千葉南方沖で地震発生。強い揺れに備えてください(気象庁)」。だがこれは誤報だった。後で気象庁が謝罪の会見を開いた。もちろん私は、最初は誤報だとはわからないから、慌ててネットのニュースを確認し、すると、ちょうどその時、各メディアの報道のトップに「福島県の郡山市で建物が爆発」と出ていたのだった。郡山こそは私の出身地である。私は愕然(がくぜん)とした。この飲食店のガス爆発は死者も出した。

 ただし、私は、この日のその爆発事故のニュースを、全国の多数の人が覚えているとは思わない。「福島」や「郡山」という土地に関わりがなければ、七、八カ月前にそうした報道に触れた記憶すら、忘却されて当たり前だろう。

 いっぽうで、少しでも「関わって」しまったら、記憶や意識の何が変わるのだろう? 今年の二月十三日の夜、福島県沖を震源とする大きな地震が発生した。そして、道の駅「あつかしの郷」のある国見町は震度6強の揺れを記録した。「あつかしの郷」自体、壁や天井の一部が崩落したらしい。そういう報道に触れて、私の鼓膜には幻のように昨夏の緊急地震速報の旋律がよみがえる。すると、私は猛烈な痛みに襲われる。心の痛みだ。

 共感はこんなふうに発するのか、と私は驚いた。
 つまり、どういう形でもよいのだ。「その土地」に関われば、あなたの心はきっと、そこに残る。「記憶する」とは、あなたなりの関わり方を模索することである。=朝日新聞2021年3月10日掲載