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柚月裕子「盤上の向日葵」 将棋で墜ち、救われる者たち

 のっけから恐縮だが、私は滅多に将棋小説を読まない。趣味である読書に仕事を持ち込みたくないという事もあるが、どうしても現実と対比させてしまい、リアリティという名の壁にぶつかってしまうのだ。小説が虚構だという事は百も承知でもついこんなわけねえじゃんとなってしまう。

 仕事として読み出した本書。しかしすぐに私ははっとさせられた。

 ――この小説は、将棋という物が持つ属性、ひとりの人間の一生を狂わせるほどの魔力を描いて、果てしないリアリティを持っている――と。

 賭け将棋の世界に生きる者や登場人物の将棋の経歴などの造形はさすがに大ゲサだが、肝心なのはそこではない。将棋を通して墜(お)ちてゆく、あるいは救われていく人間たちの、そしてそのような業を背負った者たちの交わる一瞬一瞬を重層的に描き出し、その積み重ねが全体に驚くべき迫真性を与えている。

 本書のなかのキャラクターのように、将棋に取り憑(つ)かれてしまった人間は、たしかにいる。とくにこの小説の登場人物のように何年も駒を触らず、だがまた時をへて将棋の世界に戻ってくる者は、棋士にとってかつて同じ釜の飯をくった仲間で身近な存在である。我々の心のなかには、戦ったもの同士だけが持つエモーショナルな断片があり、その本質をえぐっていて見事である。

 単なる将棋小説だと思って読みはじめた私は不意打ちをくった。この本は、将棋指しの情念を丁寧に描ききった一冊である。

 文庫の解説は羽生善治九段。伸び伸びと楽しそうに書いている。彼はこの本を読んで私と似た感想を持っただろうな、とすこし微笑(ほほえ)みながら思う。また将棋部分の監修は飯島栄治八段がしたとのこと。早口で人のいい彼がアツく語る姿が目に浮かびニヤニヤ。このふたつの感想を持てるのは業界人ならではの特権である。=朝日新聞2021年3月13日掲載

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 中公文庫・上770円、下748円=上は5刷18万部、下は2刷15万部。2020年9月刊。18年本屋大賞2位のミステリーで、19年にはドラマ化も。中高年が手に取っているという。