辻村深月さん「琥珀の夏」 恣意的な記憶、子どもと大人の目で
辻村さんの『琥珀の夏』は、大人もかつては子どもだった、という当たり前の、だが忘れがちな真実を思い出させてくれる。
弁護士の法子(のりこ)は、テレビニュースで、教育団体〈ミライの学校〉の敷地から女児の白骨遺体が見つかったことを知る。遺体は30年ほど前のもの。当時小学生だった法子は、夏休み中、〈ミライの学校〉で開かれた合宿に参加していたことを思い出す。〈学校〉で暮らしていた女の子が遊んでくれたことも。
〈学校〉で30年前に、一体何が起きたのか。弁護士として団体の事務局に赴いた法子は、自分の記憶と向き合うことになる。
「思い出が、いかに恣意(しい)的に作られたものか。それがこの小説のテーマなのかと思っていたけれど、書き進めてみると、これはゴールではなくて入り口なのかもしれない、と気づいた」
法子は30年の間に娘が生まれ、親になった。子どものころの記憶はいつしか美化され、塗り固められて心の奥底にしまわれていた。「結晶化した思い込みを(相手に)見破られて、自分の中に傲慢(ごうまん)さがあったことを突きつけられる。いままでの私の小説だったら、そこで終わりだった。だけど、これはひょっとして、そこから再びつながり直していく話なのかもしれない、と」
中学生が主人公の『かがみの孤城』など、子どもの視点で多くの作品を書いてきた辻村さん。本書には子ども時代の「ノリコ」と、大人になって子ども時代を振り返る「法子」の両方の視点が登場する。
「前までは、子どもの時間は大人の時間とはちがうものだという考えがどこかにあった。でも、年を重ねるうちに、大人の時間も子どもの時間を乗せたまま続いていると感じるようになった。記憶はとても恣意的なもの、という描き方ができるようになった」
白骨遺体が見つかった〈ミライの学校〉とは、理想の学校だったのか、それともカルト的な団体だったのか。「〈学校〉の理念もそうだけど、育児も教育も正解がない」と話す。
「子ども時代には当然だったことが、大人になって考えると、あれは何だったんだろうと思うことがある。記憶を俯瞰(ふかん)してとらえられるようになったいま、その手触りのまま書いてみたかった」
道尾秀介さん「雷神」 不確かな過去から派生する不条理
道尾さんは『雷神』について、「トリックとストーリーが骨と肉ほど一体になっている。どんな人が読んでも100%楽しめる」と自信を見せる。
新潟県の山間の村で、ある家族が不可解な経緯で母を亡くした。そして翌年、村の有力者が毒キノコを食べて命を落とし、この家族の父が毒キノコを鍋に入れた疑いをかけられる。村に居づらくなった父は、長女とその弟を連れて、逃げるように村を後にした。それから30年の年月が経った後、事件の真相を確かめるため、姉と弟、そしてその娘は身分を偽り、村に足を踏み入れる。
舞台となる羽田上(はたがみ)村は雷神を祭り、有力者4家がすべてを差配する閉鎖的な社会だ。「小さなコミュニティーの、感情の絡まりあいを丁寧に書いていくのが好きなんです。人の負の感情や、善の感情までもが絡まりあって事件が起きる。その感情は濃縮されていればいるほど、起きる結果も大きかったりする」
村人のせりふを書くにあたり、方言辞典を読み込んだ。新潟の方言は、「温かみがあるのに、シチュエーションによっては急に冷たく、ぶっきらぼうに感じられる」。たとえば、「だから」という意味の「だーすけ」。「のんびり話しているときはとても牧歌的に響くのに、相手を責めるときにはより攻撃的に聞こえる」。穏やかな村人たちは、事件を話題にしたとたん、態度を急変させる。
30年前に、一体何が起きたのか。時のベールをはいでいく作業は、そう順調に進むはずもない。「未来はあてにならないとよくいうけれど、じつは過去の記憶もあてにならない。ほんとうに自分が体験したことなのか、ひとにいわれたことなのかを確かめる手段はなくて、どこかにうそが混じっているかもしれない。一部が違っていると、そこから派生したいろんなことの意味が、がらっと変わるかもしれない」
ちょっとしたボタンの掛け違いが、思わぬ悲劇を呼び込んでしまう。不条理の連続は、神とは何かを問いかける。「『神』という言葉は知っていても、それが何なのかはわからない。それを事件を通して突きつめていくという目標があった。登場人物たちと一緒に1年がかりでこの物語に取り組んで出た結論が、最後のページに書いてあります」=朝日新聞2021年6月30日掲載