「鬼平」と逆の視点で江戸を見つめる
あわただしい日常の暮らしから、強制的に「ログアウト」し、物語の世界に没頭できる時代小説。久しぶりに、じっくり読んでみたくなりました。今回は、池波正太郎さんの超大作『雲霧仁左衛門』(新潮社)を紹介してみようと思います。
歌舞伎や講談、テレビドラマなどで取り上げられてきた『雲霧』は、ご存知の方々も多いのではないでしょうか。池波正太郎さんと言えば『鬼平犯科帳』がおなじみですが、この『雲霧』は、「火付盗賊改方長官」である『鬼平』とは逆の視点、つまり「盗賊」が主人公となって、江戸・享保期の世を見つめています。
神出鬼没の「本格盗賊」の頭目、雲霧仁左衛門は、江戸の街で一人の命も殺めることなく、1万両を盗み出すという「偉業」を成し遂げます。そして新たに狙うのは、尾張・名古屋の老舗薬種(くすり)屋を営む豪商、松屋吉右衛門。4年前に妻を亡くした吉右衛門のもとに、雲霧の命令によって、雲霧の一味の女「七化けのお千代」が近づくことから物語は転がります。江戸市中、さらには尾張・名古屋のさまざまな場所を舞台に、オムニバス形式で物語はジェットコースターのように進みます。
まず、冒頭シーンから圧倒されます。「尼僧」に扮した「七化けのお千代」が、吉右衛門を嵌(は)めていく。ひとの懐に、かくも鮮やかに、確実に入り込んでいくとは……。ちょっと、朝日新聞の週末の読書欄では紹介するのは憚られるほど、妖艶な濡れ場の場面が繰り広げられます。とにかく、「女」を使って、たらし込んでいく。「七化けのお千代」のなまめかしい色香に、くらくらしてしまいます。
それから後も、使用人として、番頭として、さまざまな手を使って雲霧一味はターゲットへ「入り込み」を実行していきます。知恵の限りを尽くすさまが、じつに鮮やか。ただ、いわゆる「急ぎ働き」として、人を殺め、手籠めにして、奪うことはありません。とにかく、殺さず、時間をかけて、丹念に計画を練って、鮮やかに奪い去っていく。誰も傷つけずに、手際良く、盗みを成立させていく。それが雲霧仁左衛門の「こだわり」。確固たる矜持が窺えます。
「悪」に徹し、盗賊の矜持に生きる
『ルパン三世』や『鼠小僧』など、「盗賊モノ」にはさまざまな名作がありますよね。雲霧仁左衛門は、いわゆる義賊ではありません。鼠小僧のように、世の悪を懲らしめ、庶民に富を分配するみたいな存在では決してない。あくまで「悪」に徹している。でも、盗賊の矜持を大切に生きる本格の盗賊。そのありように、僕は何だか好感を抱いてしまう。悪を悪のままで描き切っている筆致。そのさじ加減が、素晴らしい。
雲霧一味を追いかける、火付盗賊改方の面々も、魅力的な人物ばかりです。その正義感もすごく伝わってくるし、彼らへ感情移入ももちろんできます。ただ、そんな面々を鮮やかにかわし、手玉に取って、雲霧一味は裏をかく。やっぱり痛快です。
そして、もう一つ。何ともすがすがしいのは、雲霧の手下たちが、頭(かしら)に対し絶大な信頼を抱いていること。物語の途中、予定していた盗みの計画を急に早め、雲霧が行動を起こさざるを得なくなる場面があるのですが、その、ただならぬ状況下においても、「親方の言うことを信じていれば間違いない」と、手下たちはいっさい動じません。一人ひとりの心をしっかり掴み、魅了していく雲霧。いやあ、かっこいいです。それぞれが仕事人である手下たちが、雲霧を頂点に強固な信頼関係を持って動いているのです。
もしも僕が演じるなら、盗賊の実務型トップの「木鼠(きねずみ)吉五郎」をやってみたい。いぶし銀といった存在で、絶大なカリスマ・雲霧の代わりに、陰に隠れつつ、一歩引きつつも、ことのすべてを把握し、すみやかに実行に移していく。その鮮やかさに惚れますね。それから、仲間を裏切った「狗(いぬ)」に対しては、容赦しない。その鉄の掟は、何だか任侠の世界にも通じます。
日常を切り離しタイムスリップ
江戸の細かな町名が綴られ、「ああ、ここは、今の、あの街のあたりかな」という、何とも言えない郷愁を覚えるのも魅力です。僕らの祖先の日本人は、こういう世界で生きてきたのだな。僕はふだん、「日本人らしさ」という言葉を、あまり率先して使うほうではありませんが、単純に、ありし日の先人の暮らしかた、ルーツを想像するだけで、なんだか心が安らぐのです。
ただ、物語の展開はあまりに早くて、似たような人名、地名、屋号が次々と出てくるため、ちょっと混乱するかも知れません。雲霧一味の足並みも、後半になると「ほつれ」が見え始めます。そのあたりのゴチャゴチャした感じと、スリルもまた良いのです。
それにしても、読み進めていて強く感じるのは、「江戸の街は圧倒的に今よりも暗い」ということです。夜の闇がめっぽう深いのです。そうすると、人々は、五感を今よりも遥かに働かせて生きていかなければならない。風や、温度、川の流れ、季節の移ろい。五感をフル活用させていくぶん、さまざまなデバイスで補完されている僕たちよりも、能力がよっぽど高いように思います。
現代を生きていると、途方もない疲れや、目を背けたいような問題がどうしても生じてきます。そんな日常から自分を切り離し、癒されたい時は、ぜひ手に取ってみてください。タイムスリップ、というワンクッションを挟むことで、無限のファンタジーが広がっています。
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池波さんの原作を、崗田屋愉一さんが同名の漫画にしています。ビジュアルでキャラクターを認知できるぶん、登場人物のとにかく多い物語の世界に、さらに入り込みやすいかも。原作小説とはストーリーの立て方が少し違っている面もあって、どちらも魅力的だと思います。
(構成:加賀直樹)