1. HOME
  2. インタビュー
  3. 「SFプロトタイピング」思考で、退屈な日常やビジネスをおもしろく 樋口恭介さんインタビュー

「SFプロトタイピング」思考で、退屈な日常やビジネスをおもしろく 樋口恭介さんインタビュー

樋口恭介さん

 これを読んでいるあなたは、毎日を楽しんでますか? 私は文句ばかり言ってます。例えばApple Musicは曲が多すぎて何を聴けばいいかわからない、とか。私はかつて東京・渋谷のタワーレコードに足繁く通っていました。2階で日本のインディーロック、3階で洋楽、4階でクラブミュージック、5階でジャズと実験音楽、7階で洋書。フロアを何往復もして、試聴もいっぱいして、散々悩んで1〜2枚のCDを買っていました。そしてこう思っていたのです。「ああ、全フロアの音楽が自由に聴けたらいいのに」と。

 望んだ未来は実現されました。今は渋谷店の全フロアどころか、タワレコ全店、いやあらゆる時代の音楽が手元にあるスマホの中にあります。これは控えめに言ってもヤバい。にも関わらず、私は文句を言っていた。想像力が足りなかった。このことに気付かせてくれたのが、SF作家でITコンサルタントでもある樋口恭介さんの著書『未来は予測するものではなく創造するのものである』(筑摩書房)でした。本書には退屈な日常を打破するためのノウハウが書かれています。誰かが決めた「当たり前」を忘れる勇気を持つ。すると素朴な日常に潜む楽しいきっかけが見えてくる。

 今回は『未来は予測するものではなく創造するのものである』をベースに、樋口さんのカルチャー的なルーツを辿りながら、退屈で閉塞感満載の毎日をいかにぶち壊していくか、そのきっかけと勇気について話を伺いました。(文:宮崎敬太)

競争から逃れるための「SFプロトタイピング」

――まず本書で提示された「SFプロトタイピング」という手法についてお話しいただけますか?

 SFという妄想の物語の力を借りて、一旦現実のことは忘れてフィクション世界でぶっ飛んだことを考え、ひととおり形になったらそれを現実に還元するという一連の運動のことだととらえています。一度「飛ぶ」ことによって、現実世界で技術的に実現可能なアウトプットまでをプロトタイプ(試作)する段階の作業に入ってからも、目の前の現実が将来の理想形と連続したものであるということがイメージしやすくなり、仕事に使命感が湧きやすくなるというか、「この仕事全然おもしろくないんだけど、俺なんのためにこんな意味のわからない作業やってるんだろう?」みたいな気持ちになりにくくなるのがいいところかなと思います。

 現在のビジネスは基本的に、費用対効果が目に見える形で評価できるよう営まれているのですが、それだと既に目に見えているニーズをベースにするわけですから、出てくるサービスやプロダクトも前例踏襲になりがちで、突飛なアイデアは売れる見込みが論理的に導き出せないということで殺されてしまう。さらに言えば、フレームワークというのは一種のコモディティであって、競合他社も使えるものですから、それに頼って勝負していると市場はすぐにレッドオーシャン化する。つまり、現在ビジネスでセオリーだとされていることだけをしていては、すぐにジリ貧化してきつくなるわけです。いわゆるイノベーションのジレンマってやつですね。

樋口恭介『未来は予測するものではなく創造するものである』(筑摩書房)

――そこでSFの突飛な想像力を持ち込んでみよう、と。

 そのとおりです。誰かに追従して競争するのではなく、誰も考えないことを勝手に一人で考えて、競争から逃れよう、というのが、僕の考えるSFプロトタイピングの思想です。もともとのSFプロトタイピングという言葉はブライアン・デイビッド・ジョンソンという米インテル社のフューチャリスト(未来研究員)が作ったもので、商業化されてない科学技術や基礎研究について、ビジネス上の応用可能性を考えよう、みたいなことだったんです。でもそのとき言われる「ビジネス上の応用可能性」って、やっぱり費用対効果のことであったり、想定されるアプローチはニーズドリブン(需要に応じて開発を進める考え方)だったりするわけで、それだと現状の打破にはつながらないなと思ったので、僕の本ではSFプロトタイピングという言葉だけ借りて、中身はまるまる僕が勝手に創造しました(笑)。

――現実の固定観念から離れて、想像力を加速させて自分が楽しいと思うこと/ものを作ろう、ということですね。

フィクションとリアルは連続している

――本書はビジネスパーソンに向けて書かれた本ですが、個人的にはカルチャー好きで、しかも日常になにがしかの閉塞感を抱いている人にも読んでもらいたいと思いました。

 そうおっしゃっていただけるのはすごく嬉しいです。そもそも僕はビジネスと個人の欲求を分ける必要なんてないと思っていて。どうしてビジネスはビジネス、カルチャーはカルチャー、会社は会社、個人は個人、みたいに切り分けられているのか全然わかっていない。

 僕の実感ではフィクションとリアルは連続しているし、すべての活動は連続している。僕はビジネスというものが人間の欲望を増幅したり、行き過ぎた欲望を抑制したりするための活動だと思っていて、フィクションを書くということもそういう活動だと思っている。そういう認識のもとでこの本は自然に生まれてきたんです。この本はビジネス書なのかSF関連本なのか、はたまた文芸書なのか小説なのか、よくわからない本になっていると思うのですが、そもそも僕はものごとのカテゴリがよくわからず、全部同じに見える。だからこういう本になっている。ていうか、黙ってるだけで本当はみんなもそうなんじゃないですか?

――いやいや。やっぱり一般的にはビジネスとカルチャーって全然別のものというイメージが強いと思いますよ。

 でも例えば、有名なところでもスタートトゥデイ(現・株式会社ZOZO)とかはもともと前澤友作さんがパンクスで、マイナーなパンクとかメタルのレコード収集が趣味で、数百枚しか刷らないような海外のインディーバンドのCDを趣味の延長で扱うような、超個人的な輸入ディストリビューターだったんですよ。でもセレクトがいいから口コミで広まって規模が大きくなって、そこからグッズとかも扱うようになって、その流れで服も作ったら売れまくって、結果として現在知られるような超デカいビジネスになった。

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(堀之内出版)

――前澤さんがパンク好きなのは知ってましたが、会社の起源は知りませんでした……。しかもスタートトゥデイという社名はゴリビス(GORILLA BISCUITS)の曲が由来なんですね。

 そうなんですよ。つまり前澤さんの場合、ハードコアが大好きな人が別人格として、ビジネスはビジネスと割り切ってやってるわけじゃなくて、ハードコアが好きなまま、日本では買いづらい海外のレアなCDが欲しいとか、かっこいいグッズが欲しいとか、そういう自分の欲求に従って行動した結果、他人によってあとづけでビジネスとカテゴライズされてるだけなんですよ。

 前澤さんがやってることは、社会的には全然違うものに見えてしまって、セルアウトだとかなんとか、なにかとディスられがちだけど、たぶん本人の中では一貫していて、ただやりたいことをやりたいようにやっていただけなんだと思います。いや、前澤さんに会ったこととかないから本当のところは知らないけど(笑)。

 でもまあ、ここで言いたいことは要するに、人には多様な側面があるということで、ビジネスやってるからビジネスだけの人だということは決してありえないし、カルチャーに浸かってるからカルチャーだけの人だということも決してないということです。最近のインターネットでは、みんなで人の粗探しばかりして、粗が見つかったらその粗を取り上げて、部分を全体に適用するかたちでそいつのすべてがクズである、みたいに結論づける風潮がありますが、やっぱり部分は部分でしかないし、生きている人間はもっと複雑で理解を超えたところにあるので、白か黒かなんて簡単に区別できないよね、みたいなことを思いますね。すごく普通なことを言ってしまっていますが。

――個人的にはビジネスにおける資本主義の思想とカルチャーの自由を追い求める思想って矛盾するイメージがあるんです。

 全然矛盾しないと思いますよ。僕の解釈ではビジネスもカルチャーも手段でしかなくて、重要なのは、それで何がしたいのかということだと思います。どういう欲望に基づいて、誰を巻き込みながらどういう形に落とし込みたいのか。もう少し踏み込んで言うと、ビジネスの本質って要するに組織と流通のことだと僕は思ってて、それってカルチャーだろうがなんだろうが、何をするにも不可分じゃないですか。一人で何かを作るのは難しいので、みんなで集まって何かを作って、作ったものを距離の離れた多くの人に届けるということ。活動としてのビジネスというのはそういうことで、資本主義かどうかとは別のところで、どんな社会においても普遍的に発生するものだと思います。

 現在の日本はたまたま資本主義社会で、そこに付随して金銭的やりとりが発生するということになっている。ただそれだけのこと。なのになぜかビジネスというと、すぐに「金の亡者」だとか、あるいは「社畜」みたいな話になる。大きな組織と大きな流通は、大きな何かを実行するためのツールなので、普通に使えばいいと思うんですけどね。一人でやれる人は一人でやればいいと思いますが。

むきだしの資本主義から自分を守る

――そうか。いわゆる「会社員」のマインドセットって、批評家のマーク・フィッシャーが暴いた「資本主義リアリズム」のことなんですね。「資本主義への貢献だけが人生の成功として許容される」という思い込み。樋口さんは評論集『すべて名もなき未来』で、『資本主義リアリズム』に触れながら、各個人が身を切り売りしなければならないような現在の資本主義のあり方を批判し、別の可能性を模索することを提案していますね。

 そうです。今の世の中は、あらゆることに値付け可能で、自分の持つ何かを切り売りしながら生きている。僕も文章を書いて商売にしているわけですし。そういう風に資本主義にどっぷり浸かりながら資本主義に対する根本的なオルタナティブを提唱したり、個々人のやりたいことだけを突き詰めようなんて提唱するのは、もしかしたら幻想にすぎないかもしれない。だけど、その幻想をどのレベルで見るのかが大事だと思います。

 資本主義はつらい、でも「資本主義打倒! 共産主義革命万歳!」みたいなノリに誰もがなれるわけでもない。資本主義は資本主義として否定的に受け止めながらも、その中で生きていかなければならない。ではどうすればよいか。そこで自分だけの場所、むきだしの資本主義から自分を守るための活動やそのモデルケースみたいなものがあると、いろんな人が生きやすくなる気がする、と僕は考えます。「一時的な資本主義の外側を、資本主義の内側に作るイメージ」というか。それを事業としてやれると、救われる人がたくさん出てくるんじゃないかなと。

 それが、僕がSFプロトタイピングの活動を始めた内発的な動機です。だから、僕が言うSFプロトタイピングは、「この企画をやったのは俺だぜ」って会社でドヤドヤやって競争原理の中でうまく出世していくみたいなガツガツしたものじゃなくて、会社に所属しながらも、ひとときでも競争がどうのとか出世がどうのという資本主義のつらさのようなものから逃れられる幻想を抱かせてくれるアジールのような場があるといいよね、という提案でもあるんですよ。

樋口恭介『すべて名もなき未来』(晶文社)

――ただ「資本主義への貢献だけが人生の成功として許容される」という思い込みはなかなか深刻で、かつ貢献の過程で生まれた社会との軋轢――フィッシャーも患っていたメンタルヘルスは自己責任。僕自身もまだ会社員だった10年前に鬱病になって、樋口さんの『すべて名もなき未来』で『資本主義リアリズム』の論評を読むまで、社会と自分の間にあるモヤモヤした違和感の正体すらわかりませんでした。樋口さんはこの社会を俯瞰した時、絶望感に苛まれることはないのですか?

 僕、希望や絶望ってあんまりよくわからないんですよ。もちろんムカつくことはしょちゅうありますよ。嫌な気持ちになったりもする。でもそういう感情はエネルギーだと解釈してます。不快になってもアドレナリンがたくさん出たら、それはそれで依存性があるわけで、快との違いがよくわからなくなったりする。

 刺激を受けて自分の心境が変化すると、プラスの方向かマイナスの方向かとかはあまりよくとらえられないまま、ただ何かをしたくなってきて、「お、いまエネルギー出てんな」って解釈してしまう(笑)。僕はけっこう、そういう衝動に基づいて活動したり、そういう気分を作品に投影して世に問うてるわけです。「うわー、絶望だ!」みたいになってるときも、だから基本的には元気なんじゃないかなと思います。

――もともと明るい性格なんですか?

 どうなんだろう? 遺伝子的な問題かな? 家族みんな明るいんですよ。僕、実家がクソ貧乏で、小さい頃は借金も超あったみたいで、大学に入るまで牛肉とか食ったことないレベルだったんですよ。でもなんとかなるっしょってみんな思ってて、僕もそう思ってて、実際なんとかなった。そういうバックグラウンドはあるかもしれないですね。

最低を最高に、パンクとは解釈の革命

――樋口さんは音楽好きとしても有名ですが、パンクからはどのような影響を受けましたか?

 パンクからは超影響受けてます。僕は生まれた家が貧乏だったから、子供の頃はろくな人生を送らないと思ってたんですよ。でも中学2年の時、ニルヴァーナのベストアルバムと出会ったんです。テレビでCMが流れてきて、めっちゃかっこよくて、何これとなって、すぐアルバム買ってきてめちゃくちゃハマって。それからカート・コバーンについて調べていくうちにパンクのこともだんだんわかってきて。

 パンクってつまりは解釈の革命なんですよ。最低なものを最高だと反転的に解釈する。その解釈を世に問うことで、社会の既成の価値観も混乱させる。パンクでは金がないほうがかっこいいし、ボロボロの服を着てるほうがイケてるんです。僕はもともと変人扱いされることが多かったんですけど、パンクを知ってからは「変人ですけど何か?」みたいな気持ちになれるようになった。だからパンクにはとても感謝しています。

――その話を踏まえると、樋口さんの著作『構造素子』『すべて名もなき未来』『未来は予測するものではなく創造するのものである』、編集された『異常論文』には、一貫して既存の価値観を再解釈して抗う精神を感じます。東京オリンピックの開会式にまつわる諸々が象徴的ですが、最近は日本があまりにも保守的で、作り手も「こうやっときゃ客は喜ぶっしょ」みたいな置きに行く、無難な思考が蔓延している気がしてて。

 無難な考え方の中で何かを評価する観点がめちゃくちゃ構造化されてて、そこから抜け出せなくなってる感じはしますね。ただ僕自身は「この本を書くんだ!」という強い意志で書いたものはあんまなくて。「こういうのあったら面白いよね。ウケるよね」ってノリから作品が結果的に生まれてる感じはしてます。「こういうの書けば売れるかも」と思ってエンタメっぽい小説を書き始めることもあるんですけど、大体すぐに飽きちゃうんですよ(笑)。僕自身が面白いと思う要素入れたくなる。

 それは世の中的には変なものかもしれないけど、僕はそういうものが好き。その結果世の中的には無視されるかもしれないけど、そもそも制作って楽しいと思ってないと続けられないので、それはそれで仕方ない。

樋口恭介『異常論文』(早川書房)

――それってまさにパンクの真髄であるDIYスピリットですね。好きなものがないなら自分で作るっていう。

 そういう意味なら、僕は現代のアンダーグラウンドなインディーの音楽シーンにもかなり影響を受けてますね。自分たちの活動を言語化するための概念を創造しちゃうというか。新しい概念を作って、世に問うていくことが当たり前にあるんですが、そういうところにパンク的なDIYスピリットを感じます。

 例えば、ノイズミュージックの中にはハーシュノイズってサブジャンルというか概念があって、その中でも「俺らはノイズの本質を突き詰めてやってる!」って層は勝手に自分たちの音楽をハーシュノイズ・ウォールって呼び出したりしてる。さらにポスト・ハーシュノイズって呼ばれるジャンルが生まれたり。サブジャンルのサブジャンル。

 そういうものは名乗っただけ生まれるので、たくさん生まれるし、流行らずにすぐに消えるものも多いんだけど、生まれてすぐ消えるのがめっちゃ面白いと思う。生まれて消えて、また生まれる、という運動が活発なシーンを形成すると思います。僕が創造したSFプロトタイピングの概念も、最近出た『異常論文』みたいな概念も、その感覚から生まれたものなんです。

――近年は何かと結果ばかりが求められて、僕らもそこに思考を絡めとられがちだけど、そうじゃない価値観もあると思うんですよ。樋口さんは先ほど「資本主義から逃れた幻想を抱かせてくれるアジールとしてのビジネス」とおっしゃっていましたが、結果とか関係なく内発性から生まれるものこそ、今世の中に必要だと思うんです。

 そうですね。『異常論文』もよく「内輪で盛り上がってるだけだろ」って批判されるんですよ。それは本当にその通り。でも、内輪っていうのは悪いところばかりでもないと思ってて、むしろ僕は内輪にこそ希望を見てるんです。

 イアン・マッケイの有名な言葉に、「本当にラディカルで素晴らしい音楽は、常に少数の人々だけが目撃できる」「新しいアイディア、新しいアプローチというものは2000人の前では起こらない。そういうのは20人~25人が目撃するものなんだ」っていうのがあるんですが、僕はその言葉に強く共感します。尖ったカルチャーって基本的には内輪の中でのもんもんとした謎のパワーによって生まれてくる。それで、誰にも止められなくなったところでメジャーなところに出てきて、バーン!って急に生まれたように見えるんですよ。

 こんなこと言ってるとまた怒られるかもしれませんけど、ぶっちゃけカルチャーって内輪で盛り上がってナンボなんですよ。それはよくわからない謎のものだし、外から見たらキモいものかもしれないけど、内発性で何かを始めるとか、新しいシーンを作るってそういうことだから。アンダーグラウンドの音楽のシーンにでは客が1人とか2人とかしかいないライブなんてザラにある。演者しかいないライブだってある。それは一見ダサいように見えるかもしれないけど、同時にたぶんそれが大事なんですよ。なんの得にもならないし、誰にもウケてないかもしれない。それでもやりたいからやる。その熱量の中でこそまったく新しいものが生まれ、消えていくものもあれば残るものもあり、新しい歴史がつくられていくのだと思います。