上村裕香「ほくほくおいも党」 2020年代を自分の言葉で表現し尽くす驚きの才能(第28回)
言葉が伝わらない。
その言葉を発した者が悪いのか。聞くことができない方が悪いのか。
誰よりも近い間柄のはずなのに、なぜか会話が成立しない。上村裕香『ほくほくおいも党』(小学館)は、そうした父と娘の日常を描いて幕を開ける。
6話から成る連作小説で、第1話「千秋と選挙」、第6話「千秋と投票日」で〈わたし〉として語り手を務めるのが、主人公の豊田千秋だ。一家が住む県営住宅のベランダで、千秋が父の正に髪を切ってもらう場面から話は始まる。千秋は同じ部活の友人について話したいのに、その宮ちゃんが後輩の憧れの的で女子バレー部の王子様だということを言いたいのに、正の耳にはまったく入らない。この父親が関心を持つのは、自分の娘が17歳と11ヶ月で、間もなく選挙権を持つという事実だけなのだ。18歳選挙権がいかに大事かということをとうとうと語り始め、ついには宮ちゃんの支持政党を聞いてみて、と言い出すのだ。「今度班会に連れてきんしゃい。共政党の入党も十八歳からできるけん」と。
豊田正、共政党の専従であり、50代に入ってから選挙に出馬するようになった。目下5連敗中である。正が「党から支給される支度金で賄えない被服費や人件費」を家計から出すようになったため、豊田家はいつも火の車である。ベランダで放置されて枯れたままになっているパキラのように、千秋たち家族は水分を失い、萎れたままでいる。
18歳の誕生日を迎えた千秋は、その日のうちに党の事務所に行かされる。入党申請書を出すためだ。千秋はためらう。こどもが党に入ることを正は当然のことだと思っているが、千秋自身の意志ではないからだ。「なんでお父さんはわたしを党に入れたいの?」と訊ねた言葉は正の耳には届かない。「とーよーだ、ちーあーき。はよ書き」そう繰り返すだけだ。
父と会話が成立しないことに千秋は悩む。兄の健二も入党したが、高2のときから引き籠って県営住宅の自室からほとんど出てこなくなった。話を聞いてくれる人は家の中にいないのだ。そんな千秋がある日、SNSの書き込みから「ほくほくおいも党」の存在を知る。「親が左翼政党の専従者や組合職員である」活動家2世の救済を目標とする団体だというのである。自分以外の活動家2世に、千秋は会ってみたいと考える。
ここまでが第1話の内容だ。続く第2話「佐和子とうそつき」では、母親が市会議員であったという女性が視点人物になる。彼女が千秋と会うのである。その佐和子の母親は元市会議員で、豊かな内容を流れるような弁舌で語れる人材として支持者が多かった。ほくほくおいも党にやってきて母親について話すように促された佐和子は、自分が「体験の輪郭を人差し指でおそるおそるなぞるような、不安定な言葉しか出てこなかった」ことに戸惑う。言葉が借り物なのである。常にモットーでしか話せなかった母親と、同じことを佐和子もしていた。
政治については熱く語るが家の中では寡黙で、娘の話が耳を素通りする千秋の父親。常に正しいことしか口にしないが、すべてが自分からは乖離している母親。この人たちには自分の言葉で話せていないという共通点がある。
共政党のモデルについてはあえて言うまでもあるまい。序盤の2話を読んで私は少し驚いた。宗教2世と同じように、活動家2世の存在を俎上とし、左翼政党を批判する内容なのかと思ったからだ。だが、もちろんそんな一面的な小説ではない。
第3話「和樹とファインダー」では豊田千秋と同じ高校に通う浅間和樹が視点人物となる。教師に頼まれて生徒会選挙のドキュメンタリー・フィルムを録ることになり、和樹はカメラを回し続ける。前2話とまったく違った角度の話になったので一瞬戸惑う。詳しくは書かないがこの第3話は、親子はこうあるべきだとか、親はこどもを愛するものだ、というような紋切型の理想論を相対化するために置かれているのである。映像記録はあくまで切り取りであり、物事の全体をとらえているわけではない。そういうことも描かれる。続く第4話「康太郎と雨」では、さらに話が豊田家から遠ざかる。舞台も変わって、東北の某県だ。東日本大震災後のボランティアとりまとめのため、党から豊田正が派遣されてくる。視点人物は康太郎という大学生で、ボランティアに参加して正に会うのである。彼の目から見た豊田正は一緒に肉体を酷使し、腰を痛めて働いてくれる人物だった。社会正義というものがこの世にあること、それを実現するためには誰かの力が必要であるということが、この第4話では描かれる。作者が公平な書き手であろうとして最大限の配慮を払っていることがわかる。
世の中で起きていることに一方的な評価を下すことや、誰かの努力や愛情を冷笑するといった態度から、上村裕香はもっとも遠いところにいる作者だ。そのことは、第21回「女による女のためのR18文学賞」を受賞した表題作を含む連作小説『救われてんじゃねえよ』(新潮社)ですでに明らかだった。同作の主人公は、突如難病を発した母親を介護しなければならなくなった少女である。父親は生活能力皆無で、かつプライドだけは高いため主人公の助けになることは何一つしてくれない。それでも主人公は、自分がヤングケアラーと見なされ、そう呼ばれることに疑義を呈するのである。誰かの言葉によって存在が規定されるとき、自分は本来の自分が持っていたものを失い、あるいは持っていなかったものを背負わされることになる。『救われてんじゃねえよ』は、そうした言葉の収奪についての小説だった。
『ほくほくおいも党』の主人公である千秋は、そして彼女と同じ活動家2世の先輩である佐和子は、父母を単純に憎んでいるわけではない。愛憎半ばする、という言い方も少し違う。そうした紋切型は、この作者には最も似合わない。彼女たちは、親と自分を語る言葉が見当たらないことに戸惑い、答えを探し求めているのである。さまざまな家族があり、自分たちを語る言葉をそれぞれが持っているはずなのに、適切に話すことができない。佐和子と話したとき千秋は、気持ちを形にしたいのに「自分の内側にあるものは、言葉にした先からわたしのものではなくなっていく」という感覚を味わう。まだ千秋の中に、言葉が成熟していないのだ。ある場面で彼女は、自分の言葉を「選びとる」。本作に成長小説の要素があるとすれば、千秋が決定的な局面を迎えるのはまさしくその瞬間なのである。
『救われてんじゃねえよ』を読んだとき、2020年代を自分の言葉で表現し尽くした、凄まじい才能の持ち主だと思った。本作でもその気持ちは変わらない。これまで紹介した箇所でもわかるように、視点を切り替えて立体的に物事を表現していく技巧が素晴らしい。『救われてんじゃねえよ』は1人称1視点の物語だったが、多視点の叙述も使いこなせる作者であることを本作で証明した。第4話は東日本大震災を背景にしているが、それ以外にもうひとつ、2020年代の日本を騒がせた事件についての言及がある。親の活動によって人生を制限された2世の若者が出てくる小説ならこの事件に触れないはずがないだろう、というものだ。そこに引き寄せられ、それありきで書かれた小説として読まれないよう、作者は適切な距離を題材との間に置いている。それでいて、決して逃げているような印象は与えないのである。題材と切り結びながら、決してそれに小説を支配されないというのは、相当なベテランでも難しい技法なのではないか。デビュー2作目でこれかよ、と感心させられたのである。
特殊な関係を描いた小説のように見えて、実は主題は普遍的である。近い間柄の相手と交わす言葉の物語だからだ。自分も大事な人と最近話せていない、という方に。ぜひ。