1. HOME
  2. 書評
  3. 「病んだ言葉 癒やす言葉 生きる言葉」書評 「存在の匂い」が滲む弱い日本語

「病んだ言葉 癒やす言葉 生きる言葉」書評 「存在の匂い」が滲む弱い日本語

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2022年01月15日
病んだ言葉癒やす言葉生きる言葉 著者:阿部公彦 出版社:青土社 ジャンル:日本の小説・文学

ISBN: 9784791774289
発売⽇: 2021/11/12
サイズ: 19cm/367p

「病んだ言葉 癒やす言葉 生きる言葉」 [著]阿部公彦

 近現代の英米詩と小説の研究を専門としながら、日本語作品にも造詣(ぞうけい)が深く、先鋭的な批評を展開してきた著者が、文芸評論の枠組みも軽やかに逸脱しつつ、「言葉」の特性についてさまざまに考察したのが本書である。読むうちに、分かっている気でいた「言葉」の真の姿が見えてくる。
 昨今、言葉は道具であり技能であるとしばしば言われ、断定的で明快な強い表現がもてはやされがちだ。しかし言葉とはそもそもモノや事象と一対一対応などしておらず、とくにコミュニケーションの局面では、発話される文脈や相手に向かう情動と切り離すことのできない、ずれをはらむものだと著者はいう。「言葉を甘く見てはいけない」
 甘く見た結果としか思えない、大学入試政策における「四技能」均等化や「論理国語」の発想を大いに批評するエッセーも多数収録される一方で、言葉の本質的な生理を理解すべく、作家たちによる言葉の運用法を個々に見てみましょうと誘うように、本書は進む。
 胃病者だった漱石の小説を「胃弱」のキーワードでひもといたり、ワーズワスの詩の唐突な転換を頭痛の発作と関連づけたりする、意外性に富む読解がそれだ。武田百合子の食べ過ぎのきらいが、『富士日記』の流麗な筆致に関係するなんて、これまで誰が言ったろう?
 こうして「病と文体」というテーマでいくつもの文学作品に切りこみ、やがて大江健三郎を論じる際には、作家本人を駆り立てる強迫観念について筆は及ぶ。「そこには作家の抗(あらが)いがこめられている。きれいな日本語表現には決しておさまるまいとする、剛性の高い記憶の力がみなぎっている」
 端正で強い日本語だけではない、それを発する人間の身体感覚や「存在の匂い」が多分に滲(にじ)み出している弱い日本語。言葉の真の豊かさを考えることは、とりもなおさず人間の心の複雑さを探求することなのだ。AIの研究にも、本書はきっと役立ちそうだ。
    ◇
あべ・まさひこ 1966年生まれ。東京大教授(英米文学)。著書に『文学を〈凝視する〉』など。