この数年で急に風呂好きになった。いや、正確には入浴剤好きになったとの言い方が正しい。毎晩、風呂を沸かすとともに洗面所に置いてある個包装の入浴剤を一つ適当に選び、ちゃぽんと浴槽に放り込む。入浴剤はいずれも近所のスーパーで買った「○○の湯」や「○○の香り」など、昔ながらの品ばかり。ただそれでも、一日の終わりに何かを選択するという行為がひどく嬉(うれ)しい。
思えば生きるとは、選択の繰り返しとほぼ同義である。どの学校に行くか、どんなクラブに入るか、どんな仕事に就くか。そこまで大きな選択でなくとも、コンビニでコーヒーを買うか緑茶を買うか、帰宅してテレビを付けるか付けないか。そんな中で今日はどんな入浴剤を使うかとの選択は、「あ、今日は柚子(ゆず)の香だった」「今夜は草津の湯だった」という感想をもたらすだけで、お風呂から上がるとともにそれこそ湯の如(ごと)くあっさり流れ去る。その後にまったく何の影響も及ぼさないが、確かに行う選択。それはひどく贅沢(ぜいたく)な行為ではあるまいか。
しかも人間どれだけ頑張っても、一日に二度も三度も風呂に入れはしない。つまり一日に使える入浴剤は常に一つ。それ以上は欲張りようがないシンプルな繰り返しは、確実に過ぎていく毎日の区切りにもなり得る。外出が難しく、季節の推移を感じづらい昨今だからこそ、そんな確実な歩みをかけがえなく思う。
世の中には水面に虹が浮かぶ入浴剤や、パチパチと音が鳴るもの、ラメが入っているものなどカラフルかつ刺激的な入浴剤が幾つもあると聞く。実はわたし自身、たまには少し変わった品を選ぼうかと店舗に足を運びもしたのだが、形も色も香りも個性的な入浴剤の数々に気圧(けお)され、何も買わずに帰って来た。
日常とはシンプルで、ほんのひとさじ程度の変化だけでいい。そして一日一日が確実に過ぎて行けば、それに勝る幸せはきっとない。そんなことを思いながら、今日もわたしはちゃぽんと入浴剤を放り込む。=朝日新聞2022年1月26日掲載