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足元を見る 澤田瞳子

 かれこれ十年近く、仕事のスケジュールの管理に悩んでいる。紙の手帳で予定を可視化したいと考えて幾度かチャレンジしたが、一方で日常の細かい用事は長らく、スマホのカレンダーアプリにまとめる癖がついている。手帳とスマホ。異なる性質のものをうまく併用できない上、自宅と仕事場が分かれていることもあって、手帳をどちらかに置き忘れることが頻発した。かくして可視化は失敗し、「確か今月のお約束は」と自分の記憶だけを頼りにパソコンに向かう状況が長く続いている。

 幸い、小説執筆の締切(しめきり)はまず忘れることがない。ぽっかり忘れられれば気楽かもしれないのに、プレッシャーが大きすぎるせいで忘れたくても忘れられないのだ。ただ随筆や何かへのコメントといった不定期のお仕事は危険で、約束を一週間勘違いしていたなどの失敗をたまにする。ううむ。このままではいけない。今はまだ大丈夫でも、この先、更に年を重ねていけば、うっかりすることは増えるだろう。というわけで数年ぶりに紙の手帳を買い、この先の仕事予定を書き出してみた。

 結果、分かったことは月々の締切の多さと、数年先まで決まっている連載の存在で、今後の多忙を突き付けられた気分で立ちすくんだ。普段、自分の足元五十センチほどだけに眼(め)をやって歩いていたのが、急にこの先の道のり数十キロがくっきり見通せてしまった気分だった。

 先のことが把握できているのは、社会人としては当然あるべき姿だろう。予定のダブルブッキングも失念も、避けられる。だがあまりに先のことまで決まっているよと思い知らされると、どうしても気持ちが急(せ)き、毎日の一歩一歩がおろそかになる気がする。遠くまで道を間違えずに走ることは大切だが、今のこの一歩を楽しむことも忘れたくない。そんなことを言い訳に、結局紙の手帳は再度お蔵入りとなり、わたしはまた「ええと、今月の締切は」と思い出しながら記憶頼みの仕事をしている。=朝日新聞2025年05月21日掲載