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高橋源一郎さん新刊「ぼくらの戦争なんだぜ」インタビュー 戦争なんて関係ないあなたへ

高橋源一郎さん

 本書で高橋源一郎さんは、戦時中に作家の林芙美子が書いた従軍記や戦後に大岡昇平が記した『野火』など、戦争に関する作品を幅広く読み、論評した。

 「戦争に関する言葉について考えようと思いました。作家として戦争を考えるのならば、言葉を通して戦争を考えるのがいいだろう、と」。取材に対して高橋さんはそう語った。

太宰のメッセージ

 ウクライナ侵攻が始まったのは今年2月。戦争下で言葉がどれほど強く統制されるのかを世界は改めて知らされている。弾圧下のロシアにあって今回「ウクライナ文学を読もう」と呼びかけた作家・批評家のドミートリー・ブィコフの言葉を、高橋さんは本書で紹介した。戦意高揚に協力したと戦後日本で批判されてきた林芙美子の作品を再読し、再評価の可能性を探ってもいる。

 「自分の国が加害側になったとき、その国の作家はどんな言葉をつむげるのか。ブィコフの言葉に触れながら、それを知りたいと思いました。多くの本を読み直していく中で、中国に攻め込んでいったかつての日本に、注目すべき仕事をした作家がいたことに気づきました。太宰治です」

 戦争に協力する小説を書いた、と戦後に批判もされてきた太宰。高橋さんは今回、別の読み方ができるはずだと考えた。戦争末期に書かれた『惜別』に込められたメッセージを独自に読み解き、本紙寄稿「歩きながら、考える」(4月1日付朝刊オピニオン面)で紹介した。本書では、終章でさらに考察を深めている。

 「戦争体制に巻き込まれた作家は、流れに従うか、協力を拒んで沈黙するのかを迫られる。『惜別』は、戦争に協力しているように見える作品でありながら、『中国文学を読もう』というメッセージが埋め込まれた作品でもありました」

 同じく戦争中の太宰の小説「十二月八日」と「散華(さんげ)」も併せて読み、高橋さんは確信にたどりついた。書くことが危険だからこそ、書くことは不可能だと誰もが考える状況に置かれたからこそ、太宰は書こうと考えたのだ、と。

 「ぼくは中学のころから60年近くも太宰を読んできたのに、太宰がずっと戦争下で書き続けていた事実にも、戦時下の作家としての太宰が持つ価値にも、今まで気づかなかった」

「みんな」の教科書

 本書のまえがきには、大人たちから聞かされる戦争の話は退屈だし聞きたくないと思っていた、という子ども時代の回想がある。

 「ぼくは戦争が終わってわずか6年後に生まれたのに、もう戦争の話に飽きていた。大人の戦争話なんか関係ないよと思ってきたのは、ぼく自身です」

 「人々が『戦争なんて関係ないよ』と言っていることは権力者にとって好都合かもしれません。でも『戦争なんて関係ないよ』と言うことは希望でもあるはずです。そう言う姿勢を国家や社会は最終的には許さないから。戦争体制ができても『関係ないよ』を貫いたら『非国民だ』と言われてしまうからです。『関係ないよ』が希望だからこそ、関係ないよと思っている人たちに届く言葉を考えたいと思いました。『関係ない』が単なる孤立であったなら、逆に簡単に流れに取り込まれてしまうから」

 本書の冒頭では、小説ではなく教科書を論評した。「わが国は神のお生みになつた尊い神国」であり「大東亜を導きまもつて行くのに、最もふさはしい」国なのだと教える戦時中の地理の教科書を読み、現代の日本やドイツ、中国などの教科書もひもといている。

 「人間が国家や民族の枠を超えることの難しさを感じる経験でした。教科書は『みんな一緒に○○しましょう』と呼びかけますよね。社会を統合する装置で、戦時には特にそれが顕著になる。戦争って教科書の実践、教科書の実現化みたいなものだなと思いました」と高橋さんは話した。

 本書は「ぼくらの戦争なんだぜ」と題されている。教科書が生徒に呼びかけるときに語られる「みんな」と、高橋さんの「ぼくら」はどう違うのだろう。

 「『ぼくら』は『ぼく』の集合です。独立した個人がまずあり、それが集まって『ぼくら』ができる。教科書の『みんな一緒に』は対照的に集合がメインで、それは『ぼく』をなくす装置なのだと思います」

 「ぼくたちは未来を知らないけれど、流れに巻き込まれてしまったときの参考例として、ぼくたちには、先人が戦争について考えた言葉が残されています」(編集委員・塩倉裕)=朝日新聞2022年9月21日掲載