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「カサンドラのティータイム」櫻木みわさんインタビュー 周囲に理解されないモラハラ被害の苦しみ描く

櫻木みわさん(©︎kawase asumi)

「立派な人」の裏の顔  

――タイトルの「カサンドラ」は、ASD(自閉症スペクトラム障害)やパーソナリティ障害を持つひとのパートナーが、その関係性に困難が生じても、それを周囲から理解してもらえない「カサンドラ症候群」からきています。このテーマを選んだきっかけは。

 この物語は完全なフィクションですが、私自身も近い状況に陥ったことがあり、周囲でも同様の辛さを経験した人の話を聞くことがあったんです。SNSやオフィシャルな場などで、表向きにはポリコレ(ポリティカル・コレクトネス:政治的妥当性)を押し出した言動で支持を得ている人が、身近な人に対しては全く逆のふるまいをしているということも、直接・間接に見聞きしてきました。このことは一度小説に書いておきたい、と思いました。

――前半は、スタイリスト志望の友梨奈がイケメン社会学者の深瀬奏と関わったことで、夢を絶たれてしまうというストーリー。友梨奈は、仕事の師である菱田から、「トラブルになって消えてしまうのは、力の弱い方」と忠告されますね。これは櫻木さんの実感でしょうか。

 そうですね。自分や周囲の経験からも、日々触れているニュースからもそれを感じます。家庭や組織などの内輪でハラスメントが起きたとき、「それくらいのことは流してあげるべき」「身内のことを外に出して大ごとにするのはよくない」といった圧もまだある。でも、ハラスメントはけっして「それくらいのこと」ではない。人の心を殺してしまうようなことです。そのことを書きたかったし、こうした構造や圧に抗って、発言や活動をおこなっている方たちに、敬意を抱いています。

報復せずとも、立ち直れる

――加害者である深瀬が、テレビで女性の人権を尊重する発言をしたり、5年も片思いをしていた、と語ったり、誠実でリベラルな人間として描かれているのが、なおさら怖いと感じました。

 深瀬は「自己愛性パーソナリティ障害」の誇大型の傾向が疑われる人物として描きました。自己愛が過大で、自分が特別であると妄信したり、批判されることに極端に弱かったりして、身近な人を傷つけてしまう。ただ、これは作中にも書いたのですが、自己愛性パーソナリティ障害というのは、経験を積んだ専門の医師が診断をすることです。糾弾したり、レッテル貼りをしたりすることはしたくないし、すべきでないという思いから、名称を出すことも含めて、書き方にはとても悩みました。自己愛が高いこと自体は悪いことではなく、堂々としたふるまいが魅力的だったり、人々に勇気を与えたりすることもあります。深瀬もそうしたところを持っている。

 一方で、加害者側に魅力があるというのは、被害者を孤立させることでもあります。ツイッターがとくに顕著だと思うのですが、短い文字数で断定的な強い言い方をしたほうが、わかりやすいしバズりやすい。それをためらいなくしていく深瀬のような人は、多数の認知や支持を得ます。一方で友梨奈のような人の声は届きにくく、自分が悪かったと、黙って自分を責めていることもあります。

 私は、自己愛性パーソナリティの人に何か言いたいというより、そうした人のそばで傷ついている人に、話しかけたい気持ちがありました。また、精神的暴力を受けているけれど、そのことに気がつかないまま苦しんでいる人に、「あなたが受けている/いたのは暴力なのだ」と伝えたかった。私自身がその認識を得たことで、視界が開け、さまざまなことを整理できるきっかけになったからです。

――後半では、夫・彰吾のモラハラに遭う未知が登場します。彰吾は自己愛性パーソナリティ障害の過敏型の傾向を持つ人物として描かれますが、深瀬と彰吾、どちらも実家との距離が近いのが印象的でした。

 確かにそうですね。いわゆる日本の家父長制のような家庭で、父親が母親をナチュラルにないがしろにしている環境では、息子も小さな王のようにいられるのかもしれません。対等なパートナーシップのモデルケースが身近になく、そのことを自覚しないまま関係を築いていくことになるので、むずかしさはあると思います。

――彰吾も深瀬もある意味、成敗されないまま物語が進んでいきます。なぜでしょうか。

 先ほどお話した通り、自己愛性パーソナリティを糾弾したいのではないというのもありますが、作中の2人の行為は犯罪ではないので、現実的にも弾劾されにくいと思うんです。それが精神的暴力のむずかしさ、厄介さでもあります。そして何より、友梨奈や未知が、報復をしなくても立ち直ることはできる、というのを描きたかったのです。

いびつさ自体は罪ではない

――後半に登場するサプコタ夫妻の関係が面白いと思いました。妻であるサプコタさんは、今まで夫も含めてつきあった人に恋愛感情を抱いたことがない、という設定です。

 自己愛性パーソナリティもそうですが、私はだれしもが特性を持っていて、そのこと自体は悪いことではないと考えているのです。それが他者への攻撃や排斥につながった時が問題であって、いびつさ自体は問題ではない。それと同じで、関係性も千差万別でいいと思うのです。サプコタ夫妻は、夫がネパール人で妻が日本人なのですが、夫は日本人の妻がいることでビザも取れて安定した暮らしを送れるし、妻は妻で、自分のつらい過去や日本国内のゴシップなどとは無縁の世界にいる夫といることで安らげる。恋愛感情がなくても、お互いを尊重し、2人でいることで心地よくいられる。それもいいではないか、と。

――このサプコタさんしかり、タイ、東ティモール、フランスなど各国に滞在されてきた櫻木さんの作品には、当たり前に在日外国人が登場しますよね。そこにはどんな思いがありますか。

 それを指摘していただいたのは初めてで、うれしいです。外国人は、出そうと思って出しているというより、近くにいることが自分にとって当たり前だから出てくるのかな。自分自身が海外で暮らしたときに、その国の人にたくさん助けてもらいました。だから日本にいても外国人に目が留まりますし、なにか手伝えることがありそうな場合は、声をかけるようにしています。

――後半の舞台は滋賀県ですね。現在、櫻木さんは、滋賀県の琵琶湖に浮かぶ沖島にお住まいとのこと。島の暮らしはいかがですか?

 前作の『コークスが燃えている』は、東京で働きながら書いたのですが、島に引っ越してからは、専業で書くことができています。滋賀県の中でも沖島は特殊な文化圏で、こんな生活があるのか、こんなコミュニティがあるのかと、毎日が新鮮です。仕事以外の時間は、島の方たちにお話を聞かせてもらったり、皆さんからいろいろなことを習ったりして過ごしています。近所の漁師さんからいただいたふなで、最古の鮨といわれている郷土料理のふな鮨も漬けました。

被害に気づくことが第一歩

――この小説を書いてみて、新たに気づいたことはありましたか。

 見えない暴力の伝わりにくさですね。「小説トリッパー」に掲載されたとき、ある知人が、「自分もケンカをしたときにパートナーに暴言を吐くことがあるから、モラハラをしてしまっているかも」と言っていたんです。その後、必要があって過去に録音した、あるモラハラの音声データを聞いてもらうことがあったのですが、そのときにその人が、「自分はモラハラのことを何もわかっていなかった」とショックを受けていたんです。周囲でも、「人に話しても軽く扱われてわかってもらえないから、話さないようにしている」という人がいて、実際に経験したことのない人には伝わりにくいのだと実感しました。だから単行本にするときに、どんな恐怖なのか、苦しみなのか、具体的なシーンを加えました。

――この小説を読んで、初めて自分の被害に気づく人もいると思います。どんなことを伝えたいですか。

 気づくことが、もう大きな一歩だと思います。私自身も、知人からの指摘や、作中に出てくる『モラルハラスメント』という本などによって、相手が抱えていた苦しさや自分が陥っていた状況を、事後的に理解しました。気づいてからのことは、読んでくださった方が、それぞれに感じたり、考えたりされることだと思うので、私から何かを伝えたいということはないのですが、この小説がその手前のきっかけになることがもしできたら、うれしく思います。