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小田雅久仁「禍」は日常を異常へ、滅びを再生へと変換する 書評家・杉江松恋「日出る処のニューヒット」(第4回)

©GettyImages

人智を超えた変容を描く

 現代最高峰の幻想作家、いや幻影作家。
 小田雅久仁の生み出すまぼろしは出会った人に絶対に忘れられない印象を刻みつける。それだけではなく、小田作品を読む前と後とでは、自分の人生そのものが変わってしまったような感触が残るのである。
 最新作品集の題名は『禍』(新潮社)だが、人生の途次で小田作品に出会うというのは至福の体験であり、同時に災厄でもある。それほどの読書体験なのだ。

 前著『残月記』(双葉社)は月をモチーフとする3作を収めた中篇集だった。巻頭の「そして月がふりかえる」には、中天に浮かぶ月を主人公が見る場面がある。その一瞬によって彼の人生は一変してしまうのである。架空の人生を描くものである小説において、登場人物の運命が動くさまが描かれるのはごく当たり前のことだ。しかし「そして月がふりかえる」ほどの容赦ない速さで切り換えが行われる小説は稀であろう。「月景石」では語り出しを読んだだけでは想像がつかないほどの壮大な規模に物語が広がっていく。そして表題作は、青春小説から歴史改変小説に至るまで、ありとあらゆる要素を詰め込んだ複合小説としか言いようのないものであった。この豊穣さが見逃されるはずがなく、同書は第43回吉川英治文学新人賞と第43回日本SF大賞を同時受賞している。その『残月記』と同等、いやそれ以上かもしれない衝撃が『禍』にはある。
 全7篇、すべてが人智を超えた変容を描いた物語である。根底には共通するものがある。自分が見ているこの世界は、実はとても限られたものかもしれないという疑念を起こさせるということである。息をして、飯を食い、眠り、学校に行き、仕事に行き、時には恋をし、愚かな振る舞いもし、ある者は家族と共に、別の者は一人で、自分の運命を全うする。つまり普通に生まれて、死ぬ。そうしたことが誰でも同じだと思って人は生きている。その安らぎをこの本は覆すのである。まさに『禍』だ。

始原的な愛情に回帰、現実の不変を疑わせる

 収録作のうち最も古い「耳もぐり」は、中原光太という大学の非常勤講師として働く男性が、初対面の男性から話を聞くという体裁の物語である。語り手〈私〉は、光太が20年来交際を続けていた香坂百合子という女性の隣室に住んでいた。百合子の居場所を知っていると言いつつ、〈私〉はなぜか自分自身の人生について語り始める。叙述形式から江戸川乱歩「押絵と旅する男」を連想する読者もいるはずだ。あの短篇で語り手の兄の身に生じたような、世界がぐるりと暗転するような出来事が本作でも起きる。だが、それがどのようなものであるかを読む前に言い当てられる者は皆無だろう。それほどに奇妙なのだ。

「柔らかなところにへ帰る」は、一転してポルノグラフィーめいた雰囲気を漂わせた作品である。異性との交際経験があまりないまま幸枝という女性と結婚した主人公の〈彼〉は、その人生に満足していた。だが、その地盤を揺るがすようなことが起きる。ある日、バスの隣席に座ってきたのはよく肥えた女性だった。彼女はなぜか、偶然を装って〈彼〉の下半身に執拗な愛撫を繰り返す。その体験が頭に焼き付いた〈彼〉は、女の幻を頻繁に見るようになるのである。色情に取り憑かれた男の妄想としか思えないこの話もやはり世界の変化を描いた物語で、〈彼〉が行き着くのは驚くべき場所である。

 まったく形は違うものの「耳もぐり」も「柔らかなところへ帰る」も始原的な愛情を描いた作品であることに注意したい。目や鼻といった感覚器官の七孔を穿たれたために原初の形質を失って死んでしまったという『荘子』の怪物・渾沌、あるいは元は男女が一体であったものがゼウスによって引き裂かれたという、アリストパネスの語った両性具有者の神話などが連想される。始原への回帰を促す物語構造は、現実の不変を疑う視線を伴うだろう。

読書が世界を分裂させ、再生させていく

 いずれ、何かがやってくる。今の平穏、安定はその前のかりそめのものにすぎない。現実に生きながらそうした落ち着かなさを常に感じている者に「喪色記」は、ほら見たことか、という逆説的な安心感を与えてくれるはずである。本作で描かれるのは、すべての色を奪い去って世界を滅ぼす灰色の獣たちであり、それから逃れ続ける男女が主人公だ。ある日突然、木々の葉が茶色ではなく灰色に枯れるという現象が起きる。そこから一つの世界が滅ぶまでが圧巻の筆致で描かれるのである。ついに来襲した灰色の獣たちの描写は、特撮マニアならずとも快哉を上げずにはいられないもので、滅びというものをこれほどまで具体的に書くことができる作者の才能に畏怖の念を覚える。そして本作もまた、滅びと同時に不滅の愛を描いた作品でもあるのだ。

 作品集としては見事な配置で、巻頭に置かれた「食書」は個人としての滅びを描いた作品なのである。主人公は小田自身を連想させるような男性の小説家だ。書を食うとは奇妙な題名だが、なるほどだから小説家なのか、と合点も行く。これは文章によって世界を作りだすという行為についての小説だからである。小説が文章として書かれた世界であるということ、それを読むという行為によって世界が再現されるということが主人公の視点を通じて再確認される。そのことが主人公を破滅させるのだが、彼を滅ぼした小説は新しい世界として残り、「食書」を読む前に読者が存在していた世界をくるむ。そのようにして、読書が世界を分裂させ、再生させていくということが初めに告げられるのだ。

 半ばを過ぎて置かれている「農場」の主人公は貧困によって社会から脱落した男で、ある仕事を与えられて生き延びる。その仕事の奇妙さを描いた物語で、主人公を拾った職員の言葉が印象的である。
「[……]きっと俺たちはよォ、大昔に地獄に落とされちまってここにいるんだけどよォ、もうすっかり慣れちまって、地獄ってのはもっと下にあるもんだと思いこんでんだな。呑気なもんだわ」
『禍』で描かれる滅びとは、実は再生の機会であるかもしれず、現実こそが地獄なのかもしれないのだ。本書の収録作には、そうした逆転の契機が常に準備されている。「農場」は幻想小説版「蟹工船」とでも言いたくなるような内容で、描かれるのは実に異常な風景なのだが、なぜか読後感は安らかなものである。日常を異常へ、滅びを再生へと変換する逆転の契機抜きに、この安らぎは理解することができない。

 ここにはすべてがあると思う。現代社会の矛盾や不公平さに顔をしかめつつも、そこから抜け出すことができない者が夢に描くもののすべてが。現実では決して手に入らないものを文章という誰にでも読み解ける形で描いた夢の贈り物が小説なのだとすれば、本書こそがその理想形なのである。世界に耐えられない人に『禍』を、と書くとへそ曲がりの言葉のようだが、でもその通りなのだ。
 ここで触れなかった2作「髪禍」と「裸婦と裸夫」は日本文藝家協会が編纂する年間アンソロジーの収録作である。発表された2017年、2021年それぞれに書かれた短篇の中でベストの1作であったことを付記しておきたい。なんだこれは。天才としか言いようがない。