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「ハンチバック」書評 暴かれる健常者の無知と特権性

評者: 小澤英実 / 朝⽇新聞掲載:2023年08月05日
ハンチバック 著者:市川 沙央 出版社:文藝春秋 ジャンル:小説

ISBN: 9784163917122
発売⽇: 2023/06/22
サイズ: 20cm/93p

「ハンチバック」 [著]市川沙央

 こんな小説を待っていた。今期の芥川賞受賞作は、軽やかで読みやすいが、社会の根幹に関わる多くの問いを孕(はら)む。障害者の生と性。生殖権、反出生主義、優生思想、フェミニズム。まどろむ読者の目を覚まし、各々(おのおの)の生の倫理に向き合わせる力強い物語だ。
 中学2年で発病した先天性の障害ゆえに、湾曲した背中と気管切開した喉(のど)を持ち、グループホームで暮らす身寄りのない40代女性の釈華(しゃか)。自らをせむし(ハンチバック)の怪物と呼ぶ彼女の望みは妊娠し、中絶すること。若い介護職員の男性と「弱者同士」の共犯関係を結び、願望を実現させようとする。風俗業界やネットの隠語や二次元カルチャーに精通した語り口は「オタク」そのもの。ままならない自己の身体や周囲の環境や日本社会を皮肉と自虐交じりに描写する小気味良いテンポの文体は、可哀想な障害者像、道徳的に共感すべき他者像を一蹴し、健常者の無知や特権性を次々に暴いていく。紙の本に対する怨嗟(えんさ)は、愛書家にグサリと刺さるだろう。
 主人公には選択肢すらない中絶への願望は、出生前診断により生まれなかった命に対する哀惜の歪(ゆが)んだかたちであり、障害者の生と性を否定する社会への捨て身の抗議に思える。両親の遺産を継いだ釈華は「お金があって健康がないと、とても清い人生になります」というが、同じ条件の邪悪な人生だってあるだろう。釈華は所与の条件に依(よ)らず、清い人なのだ。彼女の真の願いや願望は、その語りを裏切りつづける。
 本作が創作である理由と意義もそこにある。「当事者」による私小説にもなりえたはずの本作は、当事者性とフィクション性を反転・転倒させることで、汚泥を吸って咲く蓮(はす)の花のように、一見対極にあるものの相互依存性を暴く。作品も作者もアナーキー。読んだ後で誰かと語り合いたくなる問題作だ。そしてその議論こそが、遅々とでもきっと社会を動かしていく。
   ◇
いちかわ・さおう 1979年生まれ。筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎(そくわん)症、人工呼吸器使用・車椅子当事者。