「子どもたちがキョトンとするような本を」
――2023年は、ヨシタケさんが絵本作家としてデビューして10周年。『メメンとモリ』からは、今までの作風とまったく異なる読後感を覚えます。
ありがとうございます。
――「どうやって、何を糧に生きていけば良いのか」。死生観に至るヒントが提示されます。だいぶ重いテーマに正面から向き合われたのですね。
「メメントモリ」と言う言葉はもともと知っていたんですけど、一昨年のある時、「『と』をひらがなにしたら2人組みたいだな」って思い付いちゃって。「メメン」と「モリ」。そんなタイトルの本は一体どういう話だろうなって思ったんですよね。今年、50歳になって、思いついた時には我慢できなくなっちゃうんです(笑)。
――そもそものラテン語「メメントモリ」という言葉を、ヨシタケさんはどう解釈しているのですか。
一般的には「死を思え」みたいな形なんだけど、正式な出典や、どういう読み解き方がされてきたのかをちゃんと知らないんですよ、調べる気もなくて。何となく「死ぬことを忘れるな」。ペストが流行った時、「いつ死ぬかわかんないから、自分の生き方を大事にしましょう」という。「死はいつか来るんだから、生を輝かせましょう」みたいな意味かなって、ぼんやり思っているぐらいです。
この2、3年で自分が老化して、生命力が弱まってくると、「いつまで生きられるのかな」「生きているってどういうことかな」って、ついつい考えちゃうんですよ。(この本は)「死に方の本」ではなく「生き方の本」です。「生き方」と「死に方」って同じことなので。それを「メメンとモリ」というダジャレに乗っけてできないかな、と。
子ども向けの本ではなくて、担当編集者が「子どもたちがキョトンとするような本をつくりましょう」と言ってくれて、もう、いろいろと思いついたやつを全部入れちゃった。そうしたら「長いです。お話を3つに分けましょう」って(笑)。
救いがないことに救いがある話
――それで3つのお話のオムニバス形式になっているのですね。
じつは、真ん中に入っている「きたないゆきだるま」は当初、別の企画だったんですよ。あれはあれで本にしたかった。
「メメンとモリと きたないゆきだるま」
ボクは、知らなかった。
すべてのゆきだるまに意識が
ある、ということを。
気がついたら、ボクはすでに、
きたないゆきだるまだった。
最初の記憶は、
「なんか みんながボクを見て
ガッカリしてる」だった。
わかるよ。
「こんなはずじゃなかった」って
思うよね。
(『メメンとモリ』より「メメンとモリと きたないゆきだるま」から抜粋)
「ゆきだるま」の話はずっと前に思いついていて、やりたかったんだけど、暗い話なんで、単体の本にすると伝わり方が変わってしまう。そっと読んでほしいお話だったんです。それで「これも中に入れちゃおう」って。いくつかあるお話のひとつとして読んでもらう方が、僕はちょうど良いかなと思ったんです。そういうところも発見でした。ちょっと言いにくかったり、あまりにもどちらかに傾いたりしているお話は、短編集に入れちゃえばいいんだ。10年やって気づいたところでもあるんですよね。
――音楽でいう交響曲のように、全体の主題曲ではないけれど、組み込まれた小曲のような。
そうそう。
――伝えたい思いが、『メメンとモリ』という、ひとつの大テーマの中でこそ活きるのですね。雪だるまについて、「つくることの意義はある。けれども結局、汚く仕上がってしまう」。このモチーフの意味や理由とは、いったい何だろうって。
全国の子どもたちの雪だるまって、雪国のものをイメージしているんです。関東地方にはめったに雪が降らないので、たまに降るとみんな大喜びでつくる。でも、(雪の)層が薄いので、泥だらけになるんですよ。「こんなじゃなかった……」って、みんながっかりするんですよね。テレビって見ないけど、たまたま家族が見ていて、ニュース映像が目に入ったんです。そのなかに、汚い雪だるまがちらっと映っていたんですよ。見た瞬間「ああ、そうだよね!」って。
もっと本当はまん丸で真っ白のやつになると思ったのに、「こんなのかよ!」って、がっかりする。関東の子どもたちにとっては、わりと大事な通過点なんですね。それを強烈に思い出して、「ああ、すごい、がっかりするやつだ」って思った時、「雪だるまって、生まれた瞬間にがっかりされている」って急に思ったんです。すごく感情移入してしまって。ああいう、「生まれた瞬間にがっかりされている存在」、雪だるまみたいな人って「いるな」って思ったんですよ。
――がっかりさせる存在。
つくった方もがっかりするし、つくられた方も、相手をがっかりさせたことで自分もがっかりするし。誰も悪くないんだけど、誰も幸せじゃない状況って「あるよなあ」って思ったんですよね。自分が「きたないゆきだるま状態」になっている時もあるし、他人を汚い雪だるまのように見てしまうこともある。人間の世界の何かを象徴している気がしたんです。「きたないゆきだるま」として生まれたものが、どうやって溶けていくのか。溶けていくまでの短い間に何を考えるんだろう……。
20分ぐらいでメモ帳にチャーッと書いて。衝動で一つの話ができるのって、僕の中では珍しくて。ふだんはテーマがあってそのテーマにどうアプローチするか、みたいなつくり方をするんですけど、珍しく、そうなって。僕の中で結構びっくりしたんです。「こんなこともあるんだ」と。暗い、救いのない話だし、救いがないことに意味がある話。でも、そういうことを思いついちゃった。
「どうせすぐ溶けちゃうよ」
――「雪だるま」の要素には2つありますよね。「汚く仕上がっちゃった、みんながっかりする。自分もがっかり」という点、それから「だんだん溶けていく」っていう点。
うん、うん。
――「だんだん溶けていく」ということが、『メメンとモリ』の本全体に通奏低音として流れる死生観の大テーマともつながっていくし、そこに二重の寂寥感を覚えつつ、諦めの先に何かがあるようにも思えつつ。
その2つ目の「だんだん溶けていく」「溶けていくということを知っている」っていう部分は、わりと後づけ。「そう言えば溶けるんだった!」っていう(笑)。それよりはむしろ、生まれた瞬間にがっかりする人。自分が祝福されてないっていう気持ちに、すごく引っかかったんです。「しかもその後、溶けちゃうんだこいつ」。
でも、「望まれていない状態」が長続きしないのは、彼にとってむしろ幸せなのかな、とか。いろいろ自分なりに思ったんですよね。「どうせすぐ溶けちゃうよ」っていうところが、彼にとってはひとつの救いにもなるのかなとかも思ったり。
――「溶けて無に帰す」ことが「救い」。
たとえば、すごく重いハンディがあって生まれてきたり、大きなケガをして将来の夢が大きく変わったり、そういう時に、「どうせすぐ溶けちゃうよ」っていう感じになる時ってある。そういう人たちが「救い」のようなものを自分で開発できるとすると何か、って考えた時、「どう考えても現実世界では何も変わらないけれど、何かひとつ、生まれ変わり的な、この次のための何かなんじゃないか」みたいな。
「今までの何かの次が、自分なんじゃないか」っていう。そういう輪廻転生的な考え方を導入することで、ちょっと気持ちが楽になることってあるかなって。逆に言うと、「それしかないのかな」とか。
――それで、この物語の冒頭の言葉「ボクは、知らなかった。すべてのゆきだるまに意識がある、ということを」につながるのですね。「ボクは、知らなかった」ということは、雪だるまになった瞬間が、別の何かからの転生の瞬間だった、というわけですもんね。
そうなんですよ。その「がっかりされるもの」として生を受けた人にとっての希望って何だろうって考えた時、「その次がある」っていう仮定をするしかないのかな、というかね。
そういう救いのなさみたいなものを……、でも、とはいえ、それでちょっとだけでも、本人が前向きに溶けていけるさまみたいなのが、あっていいんだよな、と。それをすごく思ったんです。けど、単体でやるには……、っていう時、ちょうど良い感じに『メメンとモリ』(の構想)が後から出てきて、「入れちゃおう」っていう。
割れるお皿は「死のメタファー」
――とても重要なモチーフになっていますね。この「溶ける雪」の近似系として、この本の1つ目のお話「メメンとモリと ちいさいおさら」に出てくる、割れるお皿もあります。お皿に込めた思いとは。
「メメントモリ」なので、死の話だけれど、「誰かが死ぬ」「生き物が死ぬ」ってそのまま出てくるのも、なんかつまんないなという気がして。「人が死ぬ」って、つまり「いなくなる」「何かを失う」っていうことと同じ。生き物に限らず、大事にしていたものが、その形を変えてしまうことをどう受け入れるのかが、死を考えることとほぼ同義だな、と。
「メメンとモリと ちいさいおさら」
モリ:ごめんなさい…
メメンがつくったおさら
わっちゃった…
メメン:あらーー…
…
うん。大丈夫よ。
またつくればいいんだから。
モリ:でも… このおさらは
世界にひとつしかない
大事なもの
だったのに…
メメン:いいのよ!だって
どんなものでも、いつかは
こわれたりなくなったり
するんだから。
(『メメンとモリ』より「メメンとモリと ちいさいおさら」から抜粋、発言者名の付記は編集部)
大事にしていた、割れちゃうともう戻らない。それをどう受け入れていくかを、死のメタファーとしてやってみたんです。実際、この本の中では誰も死んでいないですけど、何かを失うっていうのは、一つのお皿が割れてしょんぼりするところから、新しいお皿を使い始めるまでの時間軸とほぼ一緒なんじゃないか、という気がしました。
――お皿を割ってしまった弟・モリに対し、姉・メメンは怒るでもなく、「どんなものでも、いつかはこわれたりなくなったりするんだから」と諭しますよね。メメンは達観し、どこか諦観さえしている。その軸を決してブレさせない。
お姉ちゃんが、何かつらい思いを経て、すごく幼いながらも大人っぽくなっちゃっている、っていうイメージです。「メメン」と「モリ」の2人をどうしよう、っていう時、おじいちゃんとかおばあちゃんがこういう話をすると、本当っぽくなっちゃうんですよ。でも、この本で言いたいことは、あくまでもひとつの選択肢で「こういう考えもあるよね」っていうこと。それが伝わらないと意味がないなと思ったんです。子どもが言えば、ちょっと信用度が落ちる、というか。
――たしかに、おじいちゃんおばあちゃんの会話でこれが出てくると、「明日はわが身」的に捉えてしまいますね。
それを「本当」として受け取らなきゃいけないような気がしてきちゃう。重いんですよ。子ども同士が自分たちの少ない経験から持ち寄ったひとつの価値観って見え方をしてくれると、この本に書いてあることが「ひとつの選択肢に過ぎないんだよ」っていう、一番大事なメッセージにつながりやすいかなって思いはあったんです。
僕自身、2つ上に姉がいて、何でもよくできて、物知りだった。「こういう関係だったのかな」と。ちっちゃい頃、2つ上でもすごくお姉ちゃんに思えたし、言うことは全部本当だと信じていましたから。あとあと「あれ、嘘だったんだ」っていろいろ気づくわけですけど。そういう、フワフワしたやり取りとか、本当だか嘘だかわかんないけど、現在進行形の本人にとっては全部本当のこととして受け入れていく。受け取ってほしかったところもあります。
――弟・モリくんの性格は、帯の文言によれば「情熱家」。
そうですね。わりと姉の方が理屈っぽい。弟がわりと感情っぽい。「理性と感情」みたいなことを担当している。普段、いつもの僕の本だと、基本的にモノローグが多いんです。主人公が自分だけでムニュムニュ考えて、「あれもあるし、これもあるよな」っていうのが多いんですけど、今回、登場人物が2人ということが決まっているので、片っぽに断言させて、もう片っぽに疑問、「でもそれってどうなの?」っていうのを言わせるっていう。いつもと違う語り口ができたのが自分の中ではすごく嬉しくて。1人で語ると断言できないんですよね。「こうかもしれないよね。でもこういうこともあるよね」っていう。ぼやかさざるを得ない。
――どんどん妄想の引き出しが入ってくるパターンでしたよね。
そうそう。でも(『メメンとモリ』のように)2人いると、片方に断言させられるんですよ。「便利だな」と思って。
――孔子っぽいですよね。孔子・孟子の。
片方が断言し、断言好きな人は片方だけ読んで、「でもさあ」っていう人は両方、会話として読めばいいのかな。そういう一つの思想の伝え方として、一人称タイプと、2人で掛け合いタイプで、またずいぶん違ってくるなっていうのも、やっていて面白かったですね。
(後編に続く)=後編は10月2日公開予定です。
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