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自分の幸せは独自 津村記久子

 「行動制限のないアレ」が口にされるようになって久しい。でもどこかで自分は、行動制限があった頃を懐かしく思ってもいるようなところがある。実は自分はイベントごとが嫌いなのではないかと最近思うようになった。国内リーグの試合のように、日常的に何か月かにわたって開催されていて、そのうちのどれかを観(み)に行く、みたいな興行は平気だけれども、「年一回」とか「これを逃すと次は……」みたいなのが本当は嫌いなのではないかと思う。嫌いというか、プレッシャーを感じる。

 それでも観に行かずにはいられない。「楽しむ」んじゃなくて、もはや「確認」だ。交通費や宿泊費がかかることもある。居合わせた人と行動の様式が合わずに、家に帰って考え込むこともある。だいたい良くない記憶は淘汰(とうた)されて、良かったことのほうが頭に残るのだけれども、体験のうちの三割ぐらいは「懸念の連続であった」場合もある。

 自分は何に対してなら葛藤なしに「幸せだな」と思えるのだろうか?

 すごくいろいろ考えたのだが、直近の記憶では、音楽を聴きながら、「どのお肉が安いか?」と考えながらスーパーのお肉売場をうろうろしている時がいちばん楽しかったように思う。あと、八年前に録画されたライブの動画で、あるバンドのギタリストが本当に幸福そうな顔で演奏していた様子を見ていてこっちも幸せになった。彼はたぶん他にも仕事を持っていてバンド専業ではないのだが、だからこそあんなに一瞬一瞬を愛(いと)おしむような顔をしていたのかもしれない。あと、気の合う友達や知人と、ごはんを食べながら話すことも、結局幸せだと思う。

 「行動制限のないアレ」は、「どれだけ特別な経験をしたか」で人々を切り分けてゆくあの嫌な価値観もまた再び解き放たれることを意味している。しかし、個人の幸福感は、わりとそういうものとは別のところにあって、それは自分で決めてしまって全然いいんですよ、と四十五歳と十か月の今、力説したい。=朝日新聞2023年10月18日掲載