1. HOME
  2. コラム
  3. 杉江松恋「日出る処のニューヒット」
  4. 月村了衛「半暮刻」に込められた迫真力 現実に物語で立ち向かう 書評家・杉江松恋「日出る処のニューヒット」(第8回)

月村了衛「半暮刻」に込められた迫真力 現実に物語で立ち向かう 書評家・杉江松恋「日出る処のニューヒット」(第8回)

©GettyImages

女性を洗脳するマニュアルを熟読するホストたち

 月村了衛は骨の髄まで大衆文芸の書き方が沁みついている人なのだな、と思った。
『半暮刻』(双葉社)は、2020年代の日本を自分の文章で書き尽くしてやりたい、という意志が横溢した長篇作品だ。しかも、現代の読者と勝負しようという気構えを感じる。こういう小説を読みたかったんじゃないですか、違いますか、という問いかけが行間から聞こえてくるようだ。
 そう、こういう小説が読みたかった。少なくとも私は。

 2015年の東京・新宿で物語は始まる。実際には1年延期されてしまった東京オリンピックまであと5年、と視点人物は考える。そのわさわさした雰囲気を小説にまとわせることを作者が意識しているのは文章の端々からわかる。カタラというホストクラブがある。城有(しろあり)という人物が創立者で、ギリシャ語で「呪い」の意味だが、タカラにも通じるからということで命名されたと説明される。呪いと財宝、2つの意味が駆け合わせられた名前というのは何やら意味深である。
 そこに新人ホストが入ってくる。一人は山科翔太、もう一人は辻井海斗である。二人は互いに惹き合うものを感じ、カタラの中でのし上がるために手を組む。ホストクラブは客が使う金が収入源である。新しい女性客は店にとって生命線だから、新人ホストたちは毎日5時間のコールを義務付けられている。コールとは街に立ってのナンパだ。翔太と海斗が一緒に立てば、2人連れの女性にも声をかけやすくなる。それが手を組むことの利点だ。カタラは飲食店だが、客を借金漬けにし、それを精算させるために風俗業へと紹介するのを裏の収入源にしていた。無理強いではなく、自らその選択をするように仕向けるのである。そのための「マニュアル」を熟読することをホストたちは義務付けられていた。成功体験を得て自らの価値を上げることを「マニュアル」は崇高な行為として煽り立てる。
 山科翔太と辻井海斗は対照的な2人だ。翔太は福祉施設出身で定時制高校中退、海斗は裕福な家庭の生まれで超一流のG大生である。ここまで違うのになぜか互いに惹かれるものを覚えて友人になっていく、という序盤のくだりを読んで、あ、これは疑似的な双生児小説なのか、と最初は思った。相似形の2人が常に対比されながら少しずつ違う運命を辿っていく、その奇縁を描く物語形式である。それが正しいかどうかはやがてわかる。
 翔太と海斗が明らかに違う、とわかる点が序盤でも書かれる。何も知らずにホストの世界に飛び込み、与えられる教えをそういうものかと単純に受け止めていく翔太と違って、海斗は「学び」と称して、カタラで起きるすべてのことから他では得られないものを吸収しようとしているのである。この前のめりさに翔太は不安を覚えるが、それが何を意味するのかは理解できない。

 本作は2部構成の小説である。第1部が「翔太の罪」、第2部が「海斗の罪」と題されていて、罪にまつわる物語であるということはあらかじめ示される。カタラで2人が行っていることがどんな罪かは明白だろう。女性を騙し、風俗業へ行くように仕向ける。直接の触法行為ではないが、倫理上の罪があることは明白だ。昔の言葉で言えば女衒(ぜげん)である。女衒は売春業者から金を取って人を売買する仕事だが、カタラのホストたちは自らは手を汚さない分さらにたちが悪い。お察しのとおり、こんな事業がまったくのしろうとだけで成り立つわけがなく、半グレ、つまり暴力団には属さずにつながりだけを持って悪事を行う者たちがカタラを経営しているのである。黒でも白でもなく灰色。グレーゾーンの商売が永遠に栄えるわけはなく、やがて破滅が訪れる。

人をモノとして見る人間の所業は

 ヤクザや半グレが凄んだり人に暴力を振るったりするだけのギャング小説だったらどうしよう、と第1部を読みながら思っていたことを告白する。嫌いではないが、いささか食傷気味である。だが、月村了衛がそんな紋切り型の物語で満足するわけがなく、第2部で話は完全に切り替わる。後半で浮上してくるのは「東京ワールドシティ・フェスティバル」という国や都を巻き込んだイベントだ。これは史実を踏まえている。1996年に世界都市博開催が企画されたが、そんなものは無駄だと言い続けて選挙に勝利した青島幸男都知事(故人)によって中止に追い込まれた。本書に登場する広告代理店であるアドルーラー社は、その企画を一手に請け負っていたという設定である。都市博開催は社の悲願であり、2028年に「東京ワールドシティ・フェスティバル」として復活させるまでにこぎつけた、というのが第2部の始まりである。その実現のためには、何を犠牲にすることも厭わないという広告代理店の暗躍が描かれていくことになる。

 第1部と第2部がどうつながっているのか。その間に共通項があることはおわかりだろう。金のために女性を風俗に売るホストクラブと、目的実現のためなら他のものを犠牲にしてはばからない広告代理店、いずれも人をモノとして見る人間の所業である。それが本書で描かれる罪なのだ。そこに翔太と海斗という2人の主人公が絡んでいく。2人の人生は一度分かれ、思わぬところで合流する。分岐点がどこか、再会はいつか、という興味で読者を惹きつけて作者は物語を牽引していく。人間の成長を描く教養小説の形式をとっているので、物語の初めと終わりで両者がどう変貌するかにも注意して読んでいただきたい。特に再会の場面は重要だ。そこで最初に私が感じた、これは双生児の物語なのではないか、という予感が正しかったか否かはわかるはずである。

現代社会の基盤を浮き彫りに

 ご存じのとおり月村了衛は『香港警察東京分室』(小学館)で第169回直木賞候補となり、惜しくも落選した。同作は活劇小説であり、映像的な効果を狙った場面が多いことに疑問を呈する選考委員もいた。それはそのとおり。だって『香港警察東京分室』は10人の警察官がいかに動き回れるかを描いた小説なのだもの。そこが直木賞にそぐわないというのならそうなのだろう。だが、月村了衛を活劇だけの作家だと思ってもらっちゃ困る。昭和史の裏を描いた2018年の『東京輪舞』(現・小学館文庫)以降、月村は現代社会がいかなる基盤の上に成り立っているかを物語として描き出す全体小説への志向を見せ、『悪の五輪』(2019年。現・講談社文庫)、『欺す衆生』(2019年。現・新潮文庫)などの大作を次々に発表している。『半暮刻』はその系譜に連なるものなのだ。

 本作第2部の展開から現在の大阪万博にまつわる諸問題を連想する読者は多いだろう。それを都市博中止という過去の出来事と結びつけ、実はこういうことだったのではないかという物語の嘘を膨らませていく。この原稿を書いているとき、ネットではホストクラブに対する規制の話題が盛んである。そうした風潮も背景に描かれている。どこからが虚構なのかがわからなくなるほどに作中世界の作り込みがされており、本作を現実の似姿として読まないことは難しい。物語の虚構がどこまで現実感を持ちうるかということに挑んだ小説なのである。活劇だけではない。現実に物語で挑戦する作家なのだ、月村了衛は。
 2人の主人公を置いたプロットも見事で、話の展開も読みづらい。こういう風にいくだろうな、という予想はできても、どうやって目的地にたどり着くかはわからないはずだ。だから読んでいてわくわくする。だって始まり方は梶山季之風なのに、山崎豊子とか城山三郎みたいになっていくんだものな。ほんと、こういう小説が読みたかったのだ。