与謝野晶子に始まり、左川ちか、茨木のり子、新川和江、新井豊美、伊藤比呂美、俵万智らが続き、おしまいに蜂飼耳の名前が並ぶ。先輩詩人の背中を追いかけ、その詩から学びたいという思いでスタートした。もう一つのきっかけは、詩人の倉橋健一さんが以前、新聞に「戦後、女性の作家は男性に比べて10年遅く出発した」と書いていたのを読み、詩人もそうではないかと考えたことだ。
なぜなのか。夫や息子が戦死したり帰らなかったりする中で、暮らしを立て直した女性たち。家事や家計を担い、ものが書ける環境ではなかった人が多い。根強い家父長制も女性が文芸を志すことを阻んだ。「女性が書くことは格闘だったんですね。社会や時代、家族との闘いだった」
たとえば、600編以上の詩を残した与謝野晶子。10回以上出産し、子どもを育てながら詩や短歌、評論を手がけた。家事もお金のやりくりもした。「当時の女性の苦労という苦労をした。その上で、一人称で書くこと、個が大切なんだと言っている」
平塚らいてうの「青鞜」に寄せた「そぞろごと」の2連目にはこんなフレーズがある。〈一人称にてのみ物書かばや。われは。われは。〉
「一人一人が自分の考えや感性を持って主張しないとダメですよ、個と個が響き合って社会ができるんですよと歌っている」。晶子の詩人としての功績にもっと光が当たってもいいのではと、たかとうさんはみる。
同じく明治生まれの永瀬清子も4人の子どもを育て、農業をしながら70年にわたって詩作を続けた。結婚式の日にしゅうとめに「間違っていても息子には逆らうな」と言われ、仰天する詩がある。式の夜、夫に「詩を書くことだけはとがめないで下さい」と申し出た。夫は承諾し、彼女は詩を手放すことはなかった。生活意識を持ち、論理的に考え、詩を作った。
そんな時代を経て、戦後生まれで旺盛に詩作してきた倉田比羽子、井坂洋子、小池昌代らを「きらきら仕事している」とたかとうさんは頼もしく感じる。
自身は1945年、6歳の時に兵庫県の姫路空襲で3歳の妹を亡くした。手を握って逃げ惑ううち、妹は戦火に命をおとしたのだった。その日に母親は出産したが、その妹も生後間もなく亡くなった。
詩を書き始めたのは17歳の時。高校の国語教師を43年間務めた。95年の阪神・淡路大震災ではがれきの中、高校3年生の教え子の家を安否確認して回った。戦争と大震災の体験を芯にして詩や評論を手がけている。
書くことで時代や社会に挑んだ詩人たち。自身も思う。「人生100年時代を生きるのにふさわしい仕事をしないといけないな」
そして、続く詩人たちへ。「先輩たちを見て、どうするのか。自分の責任として考えるから、そこに文学があるのだと思います」(河合真美江)=朝日新聞2023年12月6日掲載