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「神と黒蟹県」書評 架空の地に息づく愛おしい日常

評者: 稲泉連 / 朝⽇新聞掲載:2024年01月27日
神と黒蟹県 著者:絲山 秋子 出版社:文藝春秋 ジャンル:小説

ISBN: 9784163917757
発売⽇: 2023/11/13
サイズ: 20cm/232p

「神と黒蟹県」 [著]絲山秋子

 本書の舞台である「黒蟹(くろかに)県」は、赴任すると決まった者が「黒蟹とはまた、微妙ですね」と人から言われるような架空の地方都市だ。
 新幹線の駅はあるものの、列車が停車するのは二時間に一本。各地にちょっとした景勝地や文化財もあり、隣り合う市の住人が「落雁(らくがん)派」と「きんつば派」に分かれて対立していたり、ささいなプライドをぶつけあったりもしている。
 かつて栄えた街はすっかり寂れているが、衰退する街道沿いの何気(なにげ)ない景色など、あらゆる描写の緻密(ちみつ)さに唸(うな)らされるものがあった。日本のどこかにあってもおかしくなさそうな架空の「地味県」を、これほどまでディテール豊かに、また、ユーモラスに作り上げてしまう小説家の想像力に圧倒されたからだ。
 転勤して仕事の引き継ぎを受ける女性、テレビのロケのために街を訪れた者、隣県出身の謎めいた赤髪の移住者……。著者が描く黒蟹県の住民の日々には、これといった大きな事件は起こらない。だが、そんな人々の日常が、何とも言えず愛(いと)おしいのである。ふとした瞬間に発せられる、それぞれの人生からにじみ出る心情が、しんみりと胸に響くからだろうか。
 そして、黒蟹県に暮らす人々の姿を、少し別の視点から見つめるのが「神」である。
 この「神」のキャラクターが実に魅力的なのだ。ときには中年男性の姿で蕎麦(そば)を食べ、あるときは美容院でパーマをかける女性客として生じる神。人々の行動を興味深く眺める「半知半能」の神は、人間世界のちょっとした面倒ごとに巻き込まれることも。
 都市の成長と衰退という時代の流れの中で、それでも超然とその土地に息づき続けるものがある。神と登場人物の少しちぐはぐな交流を読んでいると、人間の営みの滑稽さと味わい深さが混ざり合っていくようで、心に沁(し)みるような静かな感動を覚えた。
    ◇
いとやま・あきこ 1966年生まれ。「袋小路の男」で川端康成文学賞、「沖で待つ」で芥川賞、『薄情』で谷崎潤一郎賞。