1. HOME
  2. コラム
  3. 鴻巣友季子の文学潮流
  4. 鴻巣友季子の文学潮流(第10回) 芥川賞作品「東京都同情塔」を魔女文学として読むと

鴻巣友季子の文学潮流(第10回) 芥川賞作品「東京都同情塔」を魔女文学として読むと

©GettyImages

ユートピアの顔をしたやさしいディストピア

 京都アニメーション放火殺人事件の判決が京都地裁でくだされ、被告に求刑通り死刑が言い渡された。被告側は控訴。量刑には罪の重さと同時に情状が酌量される。被告は両親の離婚、父からの虐待、引きこもり、精神の不調など困難な人生を送ってきたとされ、その点に同情する声もある。とはいえ、裁判では「被告は被害の実態や被害者の実情に十分向き合えていない。真摯(しんし)な反省はなく改善は期待できない」との判断があった。また、失われた人命はあまりに多く、犯行の理由はあまりに理不尽とも言える。

 今回の芥川賞に決まった九段理江の「東京都同情塔」(「新潮」12月号掲載、単行本新潮社刊)が描くのは、新たな高層タワーの建設が計画される現在と、おそらく死刑が廃止された2030年の近未来の日本だ。「東京都同情塔」(トーキョートドージョートー)という回文みたいな通称で呼ばれるそのタワーは、つまり刑務所である。この採光豊かな71階建てのビル(正式名称「シンパシータワートーキョー」)が国立競技場を見おろして建つのは、都心の一等地、新宿御苑があった場所だ。ザハ・ハディド設計による奇抜な国立競技場が実現したオルタナティヴ・ワールドでもある。

 この国には「犯罪者」「受刑者」といった言葉や概念はない。幸福学者マサキ・セトの提言により、「ホモ・ミゼラビリス」という名称を得て、矯正労働を強いられることもなく、世界一恵まれた環境のもと、「誰一人取り残さないソーシャル・インクルージョンとウェルビーイングの実現」された平等で快適な塔に入れられているのだ。なぜか?

 銀食器を盗んだ「レ・ミゼラブル」の哀れなジャン・バル・ジャンは罰するより与えよ、ということだ。彼は神父から銀燭台まで与えられ、人の心の温かさに触れて心を入れ替え更生したではないか、と。「ホモ・ミゼラビリス」とは、作中の生成AI「AI-built」(ChatGPTのパロディ)の説明によれば、

 従来「犯罪者」と呼ばれ差別されてきた属性の人、また刑事施設で服役中の受刑者、非行少年を指して、その出自や境遇やパーソナリティについて「不憫」、「あわれ」、「かわいそう」といった同情的な視点を示し、彼らを「同情されるべき人びと」、つまり「ホモ・ミゼラビリス」として再定義しました。またセトは従来の意味における非犯罪者を、「幸せな人々」、「祝福された人々」を意味する「ホモ・フェリクス」と定義しています。「ホモ・フェリクス」がみずからの特権性を自覚する必要性を主張し、社会的な立場や属性による偏見や差別を考えるきっかけを提供しました。

 とのこと。塔内では、他人を傷つける言葉、ネガティブな言葉を発してはいけないルールがあり、他人との比較は最も不健全なことなので、SNSもスマホも禁止。ホモ・ミゼラビリスたちは全面的な自己肯定感を得られる環境で、静かに音楽や読書を楽しみながら過ごしている。ユートピアの顔をしたやさしいディストピアの誕生だ。犯罪者たちはだれもここを出ていこうとしない。「『劣等』な遺伝子を長期的安楽死に追いやるための施設」だという陰謀論も出てくる。

キリストにイメージが収斂

 語り手/筆者は、この塔を設計することになる牧名沙羅という30代後半の女性建築家と、彼女に声をかけられた22歳の高級ブランド店のバイト東上拓人、牧名について煽情的な記事を書くマックス・クラインという(ポール・オースターが別名義で書いた探偵小説の主人公と同じ名前の)アメリカ人ジャーナリストの3人。ここにマサキ・セトの著書の一部やAIの文章などが引用/流用されることになる。

 本作は、やさしいディストピアの物語であると同時に、人間の正しさと不寛容をめぐるポリコレ小説でもある。ホモ・ミゼラビリスというポリティカルコレクトな語は、傷を負ったキリストの磔前の図「ミゼリコルディア」(またの名を「The Man of Sorrow[悲しみの人])をなんとなく想起させるのだが、これらのイメージの連鎖はラストで見事にあるくだりに接続する。

 牧名のなかではつねに「自己検閲者」がめまぐるしく働いている。差別的、偏見的、当事者を傷つけたり、配慮に欠けたりする文言は決して発してはならない。深く眠る自分をイソギンチャクに喩えた彼女は即座にこう思いなおす。「私はイソギンチャクであることを証明できない。イソギンチャクである自分を見たことがない。だからこうした言い方はイソギンチャクへの配慮が足りていないかしもれないし、イソギンチャクからクレームが来たら謝るべきだろう」

 そしてまた、本作は図抜けた才能をもつ女性に石を投げ、罰し、排斥しようとする「魔女文学」の系譜にも当たる。牧名は「社会を混乱させた魔女は死ね」などと攻撃されつづけて建築の仕事を辞めることになり、拓人はそんな牧名の半生をどこかの他人が「魔女の伝記」として書く前に、自分で書こうとする。

 終盤に牧名沙羅がセメントで固められて石像になる姿を幻視する場面がある。人びとは像を囲んで指さし、口々にこう言う。「見よ、彼女だ」と。このセリフにはEcce homoとアルファベットでルビが振られており、これは磔にされるキリストに人びとが投げつけた言葉だ。「見よ、この人だ」と。ホモ・ミゼラビリス、ミゼリコルディアからのイメージの連鎖がここに収斂する。

メキシコ文学の傑作を補助線に

 ここで関連図書として、別の本の紹介を挟もう。メキシコ文学の輝かしい新星と謳われるフェルナンダ・メルチョール(1982年生まれ)の『ハリケーンの季節』(宇野和美訳、早川書房)の待望の邦訳がこのたび出た。

 メルチョールはデビュー作から、故郷ベラクルス州の政治腐敗とはびこる暴力とセックスの闇について書き、独自の地歩を築いてきたが、本作『ハリケーンの季節』はそこに「魔女」というテーマを融合させた傑作である。

 冒頭は、炎天下のある日。5人の少年たちがラ・マトサという村の水路を這うように進んでいく。その先で見つけたのは「魔女」と呼ばれる女の腐乱死体だ。首を切られながら、顔は微笑んでいたらしい。

 魔女は人びとに疎まれる一方、じつは陰の大きな影響力を持っていた。堕胎、強壮、呪いなどの依頼を密かに受けて村人たちの問題を解決していたのだ。また、母親はある土地持ちの男性の愛人であり、相当の資産を有しているとか。

 この魔女は2代目である。「魔女のちび」「悪魔の娘」と呼ばれた彼女は、母の死後、魔女として跡を継いだ。いわば、「ハグシード(hagseed)」(魔女・鬼婆の子)なのである。

 ハグシードが描かれる著名作といえば、シェイクスピアの『テンペスト』がある。魔女シコラクスは悪魔との交わりで孕み、孤島に追放され、そこの所有者となる。ここで息子キャリバンを産んで亡くなり、しばらくすると王位を簒奪された魔法使いプロスペローら男性たちが島に流れ着き、魔法を使えないキャリバンは捕えられて、奴隷としてこき使われることになる。

『ハリケーンの季節』は『テンペスト』の図式を幾重にも変転させる。魔女はキャリバンと違って、母に勝るとも劣らぬパワーと才覚を持っているようだし、むしろ村人を支配している面もある。トランスジェンダーとの仄めかしがある点もキャリバンとは異なる。村人たちのなかには「おかま」「女装した男」などと言ってこれを快く思わない者もいるが、彼女のクィアネスがベラクルスの男性社会のマチズモを攪乱し、そのいびつさを照射するのだ。魔女と「愛人関係」にあったアルコールとドラッグ中毒の放蕩者ルイスミ、彼の歌を聞いて惚れこむ父不在の青年ブランド、継父から度重なる性加害を受け、妊娠して故郷を出てきた少女ノルマ……。

 また、ラ・マトサという村はメキシコの近代化の挫折を象徴してもいるようだ。ベラクルス州には1970年代に巨大油田の発見があり、巨額の対外債務を負いつつその開発と輸出業に国家の命運をかけた。めざましい発展が期待されたが、夢は挫かれたのだった。

 異質でクィアな魔女を放逐する共同体を描きつつ、みずからが周縁に追いやられてきたベラクルス州やメキシコの歴史が浮き彫りにされる。それが現在もつづくアメリカとの軋轢となっている。それを語る声は個人のそれではなく、集合記憶のようなものだ。今後、メルチョールのラ・マトサは、ルルフォのコマラ、ガルシア・マルケスのマコンド、ボラーニョのサンタ・テレサなど、ラテンアメリカの架空都市に連なる伝説の村になるだろう。

孤(個)絶の時代の言葉は

 九段理江が『東京都同情塔』で描きだす魔女牧名沙羅は、だれも取り残さない平等社会を目指すなかで、ある種の”言語障害”に陥る。『ハリケーンの季節』で共同体の記憶と意識が集合化するのと正反対に、『東京都同情塔』で言語は離散し、日本語とその話者の無思考性も指摘される。「君たちの使う言葉そのものが、最初から最後まで嘘をつくための積み上げてきた言葉なんじゃないのか?」と。そう、本作はバベルの塔の再崩壊の物語とも言えるのだ。

 私たちは人びとを「つなげる」機器を次々に開発し、20世紀末にインターネット、21世紀にSNSを発達させた。その共通語として英語が幅をきかせ、世界はグローバリズムの名の下に一つになるはずだった。

 ところが、孤(個)絶の時代がやってきた。個人の自律性と自由が最重要視され、すぐれた”現代人”ほど厚い隔壁に覆われて他者と折り合えなくなった。マサキ・セトいわく、「しかし今となっては、言葉は私たちの世界をばらばらにする一方です。勝手な感性で言葉を濫用し、捏造し、拡大し、排除した、その当然の帰結として、互いの言っていることがわからなくなりました。喋った先から言葉はすべて、他人には理解不能な独り言になりました」

 牧名も本作冒頭でこれとほぼ同じことを言っている。じつはその部分はマサキ・セトの著書か何かからの引用だったのか、あるいはマサキ・セトのスピーチに牧名の文言がエコーしているのか。どちらが外部で内部なのか?

 この「大独り言時代」にあって、牧名も拓人もなんだかAIのようなしゃべり方になってしまう。だれのものでもない、だれにも責任がない、言葉の死骸を羅列したような文言。だが、それはふたりの名前を見れば予告されているだろう。タクト、tactは「如才ない」という意味であり、マキナ、machinaは、ラテン語で機械を意味するのだから。

 それでも、この機械は考えることを諦めない。石像のように固められ、「Ecce homo」と指さされても。「考え続けなくてはいけないのだ。いつまで? 実際にこの体が支えきれなくなるまでだ。すべての言葉を詰め込んだ頭を地面に打ちつけ、天地と地が逆さになるのを見るまでだ」という牧名の言の葉のしぶとさよ!