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鴻巣友季子の文学潮流(第24回) 国際的な評価が進む村田沙耶香の集大成「世界99」のルーツを探る

©GettyImages

 国内外で評価の高い村田沙耶香の最新長編『世界99』(集英社)が刊行された。上下巻で850ページに迫る大作だ。

 村田沙耶香が一貫して追究してきたこと、それは「ふつう」「正しさ」という固定観念に抗う、あるいはそれらを揺さぶることだろう。「結婚するのがふつう」「子どもができたら退職するのが正しい道」といった圧力。世の「ふつう」も「正しさ」もその多くは時と場合により変転するものだ。そうした相対性、可変性に目もくれず、ただ一つの「ふつう」や「正義」だけに染まることは狂気なのだと、村田の作品は言ってきた。

 村田の主題の表現手段が更新された一つのターニングポイントは2014年前後にあったと思う。「殺人出産」「余命」「清潔な結婚」という中短篇3作が発表された年だ。いずれも人間の生(性)老病死のタブー、いわゆるパンドラの箱にあまりにストレートに切り込むもので、私は度肝を抜かれたものだった。これらを含む中短篇にもルーツを探りつつ、最新の『世界99』を読んでいこう。

 さて、『世界99』の舞台はおそらく近未来の日本。主人公は如月空子(きさらぎそらこ)という女性で、彼女の10歳から89歳ごろまでの人生が語られていく。10歳の空子が両親と住むのは過去のない「クリーン・タウン」という町で、差別やヘイトのない社会を目指している。

 上巻の第1章、第2章では、空子の人格形成に焦点が当てられ、ピョコルンという愛らしい人工愛玩動物の役割や、優れた能力をもつラロロリン人への人種差別について語られる。空子は周りに〈呼応〉しその言動を〈トレース〉することで人格を分裂させ、何通りものキャラを使い分けることで、安全に生き延びてきた。その時々によって、幼気な「そらっち」になり、純真な「姫」になり、がさつな「おっさん」になって。

「クリーン・タウン」とはいえ実情としては、大人の男性が小中学生の女子に性的欲望を抱いたり(ときに性交したり)、痴漢が日々発生したり、差別感情が渦巻いたりして、クリーンとは言えない世界だが、下巻の第3章、第4章では、空子が「リセット後」と呼ぶ世界が現われる。彼女が26歳ごろ、世界は一転したのだった。

 現在、住人は「恵まれた人」「クリーンな人」「かわいそうな人」と三層に分かれている。空子は45歳になり、「クリーンな人」として、元同級生の白藤遥とその娘の波と同居中だ。元夫の明人はDNA検査でラロロリン人であることが判明していたが、離婚後、ピョコルンになる手術を受けたという。

 リセット後の世界には「汚い感情」はない(ことになっている)。ラロロリン人の多くは「恵まれた人」として良い人生を送り、その恩返しとして死後は「リサイクル」されてピョコルンになり、人間たちに尽くすのだ。奉仕というと聞こえはいいが、人間はこの生き物にあらゆる煩わしいものごとを捨てている。ピョコルンは「性欲処理のゴミ箱」となり「子産みマシーン」となり、料理、洗濯、掃除、育児といったケア労働を代行する。

 そうして人間は、理想的で、クリーンで、美しくて、優しい世界に住むのだった。これを空子は「本当に公平なシステムだなあ」と感心する。

「余命」で提示された重い問いかけ

 村田作品で提起されてきた問題を三つほどに整理しよう。
 ①生命と生殖への人工操作。
 ②格差や欲望をなくして”潔癖”に生きること。
 ③正しさは不変なのかという問い。

 一つめに、人の生き死の人工操作の問題。「生命式」(『生命式』収録)などにも書かれてきたが、村田は生前だけでなく死後にも生まれる格差を書く。『世界99』では、それはポストヒューマニズムにおける格差であり、それが先述した人間の「リサイクル」というものだ。人間の再生利用という考え方と技術はカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』『クララとおひさま』や、平野啓一郎の『本心』にも書かれてきた。

 誕生から死亡まで生命に関わる人工操作が発達した現代で、生死の境はゆらぎ、一般文芸の世界にも「生まれ変わり」あるいは「不死」という概念が自然と導入されてくる。『世界99』で言えば、ピョコルンになる手術を受けることは人間としての死なのか、それとも蘇生であり転生なのか?

 この点を考えていくと、自らの命の期限を決める自由意思の問題に行き着く。村田作品のなかでこの問いを最初にとりあげたのが「余命」(『殺人出産』所収)だったのだ。きっと本作は10余年後のいまのほうが切実に読まれるだろう。その何年かのちに平野の『本心』で高齢者の「自由死」という制度が描かれるが、「余命」のそれはもっとカジュアルでラディカルなもので、それゆえ諷刺力が強烈である。作中の書店に行けば、『可愛い死に方100選』や『ナチュラルスタイルで死のう! 素敵な大人の死に方&ベストスポット』といったムックが並んでいる。死というものは、魅力的にアレンジするものとなっているのだ。少しのちに一般にも浸透する言葉でいえば、「映え」である。

 まるでインテリアや旅行のブランを選ぶような語彙や文体を村田はあえて使い、言葉から重みを取り払うことで、問題の本質を浮彫りにした。リバタリアン(自由至上主義者)であれば、他人に迷惑をかけない限りなにをしようと自由だと言うだろうが、この制度が許容されたときに資本主義社会で起動するはずの競争やメリトクラシー(能力成果主義)が人の尊厳や命の価値を損なうことはないだろうか? この競争はすでに「終活」などというCMの宣伝文句を通じて展開されているとも言える。
ごく短い篇である「余命」には重い問いかけがあったのだ。

 生と死を衝撃的な形でカップリングした中篇「殺人出産」も生命の人工操作をテーマにしている。殺人が悪でなくなったこの世界では、少子化対策として国家の運営する代理出産制度があり、妊娠・出産はアウトソーシングされている。「産み人」と称される階位の女性が十人産んで種の保存に貢献すると、だれかひとりを殺す権利が与えられるという制度だ。

『世界99』で描かれる恋愛・セックス・結婚・出産というラインの分断が、「殺人出産」にはすでに書かれていたのだ。個人の感情と生殖行為が切り離され、とくに後者が当局によって管理されるのは、ディストピア共同体の基本だ。その後、第1期トランプ政権誕生で、「セクシャル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ」(性と生殖にかかわる健康と権利)という概念が広まるのだが、村田沙耶香は2014年の時点で、国が性と生殖を管理することのディストピア性を明確に諷刺していたことがわかる。

 さらに「清潔な結婚」(『殺人出産』所収)では性交という「不潔な」行為自体が夫婦間から排除され、性愛、結婚、家制度、ジェンダーといった概念が次々と消滅していく近未来が描かれる『消滅世界』につながっていった。

先行作品の主題を解体し、更新

 二つめに、人間は正しさを追究してどこまでクリーンになれるのか?という問題。『世界99』で、過去の歴史を持たず、徹底して標準化され、格差や差別の廃絶を目指す「クリーン・タウン」の構想は、2022年発表の「無」という短篇にも見ることができる(アジア作家のアンソロジー『絶縁』に収録)。

 この近未来では、その時々で色々な生き方のモデルが流行るのだが、現在は「無」を最高とする時代だ。主人公のひとり奈々子も5年前に家を出て、「無」として過ごしている。
人びとは「無街」と呼ばれるコミューンに参入し、なるべく個性のない恰好をして、なるべく過去を忘れ去り(自分の名前や言語も)、なるべく自分を明け渡して、無私無欲の存在になることを目指す。

 貧富の格差やジェンダー差別がない世界をつくりあげるためだ。なかには手術を受けて、なるべく個性のない平均的な容姿になる人たちもいるが、手術を受けるにはお金が要るし、人の競争心はなくならず、クリーンな平等さは達成されない。この思想の浄化と幸福というのも『世界99』の核心となるテーマだ。

 三つめに、正しさは不変のものかという問いかけ。「無」では時代の趨勢を流されて生き方や正義のあり方をころころ変える人間の姿が捉えられ、スペックで人をはかるメリトクラシーが批評される。正義への批評的なまなざしは『世界99』でも光っており、さまざまな声を「多重放送」で響かせている。

 たまたま世論の風上に立った者の正しさが覇権を得る。ひとは自分にとって心地よい正しさに流れされているだけなのかもしれない。村田は短篇集『信仰』収録の「気持ちよさという罪」というエッセイで、「自分にとって気持ちがいい多様性」に負けるのを恐れていると書いた。
 そうした人間の変わり身を鋭利にえぐり出していたのが、「孵化」(『生命式』収録)という短篇だった。『世界99』の空子のように特性のない女が、次々と「仮面」をかぶって人気者になり空洞化していく。それは空疎なキャラが拡散されるウェブ社会への批評にも読め、「メルヴィルの『信用詐欺師』を思わせる作者の新境地」だと、私は評したことがある。『世界99』のコンセプトの萌芽はこのごく短い篇にもあったのだろう。

 村田は生命倫理における禁忌や、婚姻、子作り、家族内のジェンダーロールといった既成概念をゆるがし、一作ごとに自らの主題を解体し、更新してきた。『世界99』も先行作群のそのまた先を行く、村田沙耶香作品の集大成と言えるだろう。