感情がほとばしる調書のことば
池上冬樹(以下、池上):本の帯に「作家デビュー30周年記念大作」と銘打たれています。その記念大作が「阿部定」ですか! と驚きました。扇情的に伝えられてきた阿部定事件を知っている中高年層ほどそう思うのではないでしょうか。
村山由佳(以下、村山):あら、いけませんか(笑)。中高年の方たちには、エログロ的にとらえられた阿部定の固定されたイメージがあるんでしょうね。
池上:そんな阿部定を書こうと思ったのはなぜですか?
村山:きっかけは、昨年、阿部定事件を特集したNHKの番組にゲストとして呼ばれたことでした。当初は興味がなかったので、「どうして私?」 と思ったのですが、女性の性愛をテーマにした小説を書いてきたから、性愛の極地を生きた女としての阿部定に対しての意見を求められたのだと思います。
収録前に送られてきた資料のひとつに、事件直後の彼女が語った予審調書がありました。初めて読んだときに、なんて面白いんだろうと驚きました。本人が事件の前後や自分の生い立ちを語っているのですが、教育は受けていなくても、ことばを持っている人なんですよ。感情のほとばしりをことばにすることができる人だった。ふつうはこれほど克明に自分が人を殺した前後のことを覚えていないし、そこに至るまでの自分自身を、女性としての性愛への飢餓感みたいなものを、ここまで赤裸々に話さない。彼女は死刑になると思っていたから、全部あらいざらい知ってほしくて話したんです。
池上:ほかにも印象に残っている資料はありますか?
村山:力を借りた資料はたくさんあるんですけど、びっくりしたという意味では、坂口安吾との対談ですね。自分の思い描くファムファタル(魔性の女)にお定さんをあてはめてしか見ていない。男だなあというか、天下の安吾もこんなものかと思いました。
池上:自分たちが描く作品以上に、阿部定が生々しい存在だったんでしょうね。
村山:調書で阿部定が自分たちの作品を超えるような語りをしているのを読んで、供述がすでに文学であったというようなことを言っているんですよ。びっくりしたんでしょうね。私もびっくりしましたけれど。
たった1行からふくらむ情景
池上:集英社の読書情報誌「青春と読書」のインタビューで、『風よ あらしよ』で描いたアナキストの伊藤野枝は自分の分身みたいと話していましたが、阿部定はいかがでしたか?
村山:理解するのにちょっと手間がかかりましたね。いまだに理解できたかわからないのですが、自分と重ねて書くという書き方はとりあえず横においておこうと。そうではないアプローチを探るのに苦労したというのはあります。
伊藤野枝のときは「評伝に近い小説」だったと思いますが、今回は調書に出てくる人たちが登場するとはいえ、主人公の吉弥が集めた証言のほとんどがフィクションです。例えば、遊郭の窓から逃がしてやった「おみよちゃん」は調書に名前も出てこなくて、同輩を逃がしてやって怒られたという1行があるだけ。そこからふくらませました。
池上:すごいですね。情景が思い浮かぶんですか?
村山:その時代、時代のお定さんを見ている人は誰だろう、と考え、だったらこの人にしゃべってもらおうかと。そういう感じでした。
池上:独自の生活と人生を背負っていた人たちの声が響いてきます。それぞれ独特の声をしていて、想像で作ったのならばすごいですね。
村山:幼なじみの仙子ちゃんと人形の取り合いをしたというような話は当時の「婦人公論」に載っています。でも、それこそ彼女を犯した慶応の学生なんかはどこに行っちゃったかわからない。資料はあまり残ってないんですよ。みんなこの小説を「史実」だと信じちゃったらどうしようと心配しています(笑)。
池上:「評伝小説」と分類されていますが、「小説に近い評伝」ですね。
村山:はい。ただ、阿部定の歩んできた道のりに関してだけは変えていないんです。
池上:愛人のひとりだった名古屋の校長先生の造形もいいですね。あれはのって書いたんじゃないですか。
村山:楽しかったですね。名古屋弁は名古屋出身の編集者に監修してもらって。彼の語りも資料としてはほとんど残っていませんでした。
池上:いい味を出していますね。ある種の純愛ですから。
村山:いろいろ理屈っぽいし、定にとっては寝間が物足りなくて。でも先生、好きだったんだろうなあ、本当は。彼が導かなかったら、定が殺すことになる吉蔵にも会うこともなかったはずです。
定の性愛を描くのにためらいはなかった
池上:第10章、11章の事件の描写はすごいですね。あの二人がどんな風に性交したのか、克明に書いてある。出会ってからどのくらいでしたっけ。
村山:3カ月くらい。そういう関係になってからは何十日かですね。
池上:3カ月でここまで行くんですね。
村山:一番盛り上がる時期ですよね。1年つきあっていたら、こんなことにはなってない(笑)。
池上:でも、性愛の描写はどこまで描くか、さじ加減が難しいでしょ。
村山:いえ、迷いはなかったですね。『ダブル・ファンタジー』の方が、私のことだと思われるわけですからしんどかった。定に関しては、「変態女」として扱われてきた彼女を、そうじゃないところに引っ張り出してやりたいなあという気持ちがあって、そのためには彼女が溺れた性愛のことは書かないわけにはいかなかったですから。
池上:ちょっと意地悪な質問をすると、性愛の極地の物語として素晴らしい一方で、性的なものを「汚い」と感じている若い人たちが増えています。10年前から仙台の女子大で教えていますが、性的なものに対して忌避感がある。60年代、70年代とは明らかに空気が変わったなかで、若い人たちに『二人キリ』を薦めるとしたら、どうアピールします?
村山:うーん。セックスしたくない人にしろと言う気はありません。でも、私は成功も失敗も含めて、自分の心と体で体験した後に変化した自分を味わってみたらいいのにな、と思います。私が小説を書き始めた30年前に比べても、恋愛そのものを、なんでしたいかわからないという人や、一生結婚しなくていいという人が増えてきている。いろんな情報を簡単に得られるから、経験する前にいらないと思うんでしょうかね。
池上:新人賞などの下読み選考をしていると、若者が書く恋愛小説は、出会って、恋愛感情を持って、それを確認して、せいぜいキスして終わりなんです。でも一方、団塊世代の人たちはもう、これでもかというくらいにセックスを書きたがる。自分が育った時代の価値観で書いている。両極端ですね。若い子たちは「無臭」であることが大事で、ポルノが汚いものに感じています。
村山:コロナ禍もあって、人の距離がさらに離れましたからね。
池上:大学でも「池上先生が選ぶテキストは不倫が多い」とか言われちゃいますね。評論家なので、負けちゃいけないと思って、微妙で奥深い作品を次々に読ませて、目をひらかせている。共感できるとか感情移入できるとか、そういう狭い尺度で満足してもらっては困るのでね。
村山:必ずしも感情移入しなくていいんですよ、小説って。自分とまったく違う人間であっても、こういう人間がいるんだってことを、異物感があるままのみ込むことができればそれはその人にとって豊かな読書体験となりますから。
熱気を感じる昭和の匂い
池上:物語の舞台を昭和42年(1967年)に設定した理由はありますか?
村山:阿部定事件を題材にした映画「愛のコリーダ」(大島渚監督、1976年)が世に出るよりは前にしたいと思っていました。阿部定を扱った映画のなかではいまでも一番ですね。
池上:1965年には「黒い雪」事件(武智鉄二監督)の裁判で「何が猥褻なのか」が問われていますね。
村山:そうした猥褻性を問う裁判がありながら、まだ「愛のコリーダ」は世に出ていない状況です。小説のなかでは、映画監督のRが、自分が初めて撮るんだと意気込むことができる時代設定にしました。
池上:ATG(日本アート・シアター・ギルド)の運動など、当時の映画青年たちの熱気が伝わってきますね。
村山:昭和のあのころの話を書くのは楽しくて。時代に湿り気があったというか、匂いがあったというか。その匂いみたいなものの切れっ端を子どものころに知ってはいるのですが、改めて書いていて楽しいんだなというのがわかりました。
池上:社会を良くしようと議論して、みんな悩んで苦しんで。社会や家からの解放と性の解放がイコールと思われていた時代でもあります。そういった時代の気分の中、どこまで自由な精神を獲得できるかという意味で、阿部定こそ本質的なアナキストだったことが伝わってきます。
村山:映画をつくるRと小説を書く吉弥は、いわば頭でっかち。小難しいことをまったく考えていなかった阿部定こそが極北にいたというのが、面白いですね。
池上:主人公の吉弥を作家志望にしたのは何か意味があったのですか?
村山:阿部定を知らない若い読者も多いので、阿部定がどういう人物であるか肉薄していく人物が必要でした。彼女についてこれだけたくさん調べ、語っても不思議のない人を設定しようとしたときに、映画として阿部定を撮るとか、彼が脚本を書く作家であるとか、吉蔵の息子であるとかを決めていきました。
池上:描かれる人間たちがみんなつながっていって、この人に出会わなかったらこんなことが起きなかったという出会いの連環がきちっと描かれている。中心人物は阿部定であるけれど、描かれてあるのは、普遍的な人間関係ですよね。人生をかえてしまうような出会いと劇的な人間関係があるのだ、ということをとことん掘り下げている。よくぞ書きあげましたね。途中の編集者の反応はどうだったんですか?
村山:寄ってたかっておもしろがってくれるので励まされました。3分の2ぐらい書いたときに、どういう終わり方にしようかと考え、「死者である吉蔵に語らせるのは禁じ手かなあ」と聞いたんですよ。そうしたら「鳥肌が立ちました」って言ってくれて。じゃあ、やりましょうと。
池上:阿部定に殺された吉蔵の証言(第13章)は素晴らしかった。この小説が成功したポイントのひとつは、ここですよね。
村山:ありがとうございます。
池上:小説家になりたいという願望をもっている主人公だからこそ、死者の声を書くことができた。この死者の「証言」を書き上げたことで、彼の作家としての未来を示している。主人公の成長小説としても、阿部定と吉蔵の恋愛小説としても、完成されている。全部含んでいるがゆえの、この最後があってこそ、成功しているといっていい。見事です。
ブリッジとしての評伝
池上:アナキストの伊藤野枝を主人公にした『風よ あらしよ』と、今回の『二人キリ』は、どちらも自由を求めるアナキズムに通じる女性の純粋な思いを題材にしながらも、最初に手に取る読者層はかなり違いが出そうですね。
村山:これまでも、純愛に向き合う「白村山」と性愛を描く「黒村山」という分け方をする人がいました。すべての読者が私の作品を時系列に沿って追いかけてくれているわけではないので、『天使の卵』や『おいしいコーヒーのいれかた』シリーズで好きになって、『ダブル・ファンタジー』で離れた読者もいると思うんですけど、同じくらい、『ダブル・ファンタジー』から読み始めた人がいると感じています。
池上:作家は一色に染まってはいけません。読者になめられますから。多種多彩の色を出してこそ評価され、読者に信頼される。評伝小説は、そんな白村山と黒村山にわけることのできない、むしろブリッジを架けてくれる可能性があるのではないかと思うのですが、どうでしょうか?
村山:橋を架けてくれるものになるかもしれません。性愛を描いても、私の体験と思わずに読んでもらえるし、そこに託して何かを表現することもできます。史実からは自由になれないのですが、ありがたいことに、「語りたがる作家村山由佳」からは自由になれる。それは大きな効用ですね。そうして考えると、いつかは金子文子も書いてみたいと思っています。
池上:いいですね。アナキスト3部作になりますね。ぜひ読みたい。時代がつながっていると、読者も読みやすくなるし、何よりも個々の作品の背景が見えてくるし、作者にとってもより深く潜行できる。
村山:評伝小説ならではの難しさはありますが、史実に支えられる楽さもあります。ただ、得意だからと飛びついていくと、虚構を一から組み立てる力が弱っていく気がしちゃって。
池上:いや今回も90%はフィクションというか、創作ですから。
村山:実はこのインタビューの前に、初めて千束稲荷神社を訪れました。神社の向かいで定が暮らしていて、付近を歩くうちに、資料から想像して組み立てていた風景と重なってきました。
池上:ぴたりと決まった書きぶりから、何度も現地に訪れていたのかと思っていました。作家の想像力には感心してしまいますね。最後に書き終えた手応えはいかがですか。
村山:書いた直後にわかりやすく手応えを感じたのは『風よ あらしよ』の方ですね。こちらは、本当にこれでいいのかどうかが自分ではわからなくて……。でも、「よしやった」というのは、いまの自分が見えている範囲内でできる限りのことをやりましたという感触なんです。いいんだか悪いんだかわからないけれど、私が書きたいように書ききりました、というのが『二人キリ』です。結果的には、これまでよりちょっと遠いところまで行けたのかなと感じています。
池上:ずいぶん遠いところまで行けたと思います。特殊な事件から普遍性をひきだし、はみだし者の純粋さをかちとっている。いちだんと村山文学の幅と奥行きを増しましたね。
村山:連載を終えたときは、この作品をうまく俯瞰できてなかった。本の作業のために二度ほど校正して赤を入れていくなかで、口はばったい言い方をすれば、30年小説を書き続けたことはダテじゃなかった。できることが増えたなあと感じています。前だったら、すごく力まなければ、こういう構成や新しいチャレンジとかはできなかったのが、今は、とりあえず漕ぎ出してみようと思える。書いている間にも私は成長するのだから、旅の行く先々で新たな武器を手にしていく。そういう感じがありますね。