1. HOME
  2. コラム
  3. 杉江松恋「日出る処のニューヒット」
  4. 加速する冤罪ミステリー「兎は薄氷に駆ける」 親子二代にわたる悲劇、貴志祐介の読ませる技巧に驚く(第12回)

加速する冤罪ミステリー「兎は薄氷に駆ける」 親子二代にわたる悲劇、貴志祐介の読ませる技巧に驚く(第12回)

©GettyImages

一気に読ませる重層的な構造

 貴志祐介は大変なものを盗んでいきました。
 私の時間です。
 大声で世間にそう訴えたい。新作『兎は薄氷に駆ける』(毎日新聞出版)は「毎日新聞」に2022年から2023年にかけて連載された長篇で、本文が500ページ近くある。結構な大部の小説だが、読み始めたら止まらず一気に最後まで行ってしまった。恐るべきページターナーだ。

 日高英之という22歳の男性が叔父の平沼精二郎を殺害した容疑で逮捕される。警察における取り調べ場面から話は始まる。ページ数が半ばを過ぎたあたりで彼を裁く刑事裁判に突入すると話は一気に加速する。片時も目を離していられなくなり、あっという間に読み終えてしまうのである。
 殺人事件の裁判なのだから緊迫した場面になって当然なのだが、読者の関心を逸らさないために作者は技巧の限りを尽くしている。検事と弁護士が丁々発止でやりあう裁判の流れが物語の表層で描かれる。それとは別に、深層で何か別のことが進行しているのではないか、という感覚を読者は味わうのである。日高英之のために闘うのは本郷誠という弁護士だが、垂水謙介という中年男性が関係者への聞き込みなど調査のために雇われる。裁判はこの垂水の視点から描かれるのだ。垂水は元は腕利きのリストラ請負人だったが、会社の整理が終わった瞬間に自分も首を切られてしまった。「狡兎(こうと)死して、走狗烹(に)らる」というやつか。人を調査し、観察する能力に長けた男だけに、他の者が気づかない違和を裁判中に察知する。何かおかしいことが起きている、と垂水が考えれば読者も緊張する。

 貴志祐介はSF、ホラー、ミステリーとジャンルを横断して活躍する作家だ。ミステリーにおける代表作は第58回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞した『硝子のハンマー』(KADOKAWA)に始まる防犯探偵・榎本径のシリーズだろう。榎本は防犯の専門家であるが、裏では窃盗など怪しい仕事に手を染めていると思われる人物だ。彼に仕事を依頼する弁護士の青砥純子は、榎本に対して常に疑いの眼差しを向けている。視点人物が自らの頼む探偵を信用しきれていない、という人間関係が物語をおもしろくしているのである。本作の垂水も、青砥純子に似た立ち位置の視点人物である。

 ミステリー執筆の決まりとして、作者は読者に対して真相を推理するための手がかりを呈示することが求められる。このやり方が難しく、慣れない書き手はとにかく読者の目から隠したがるが、熟練作家になればなるほど曝け出そうとする。『兎は薄氷に駆ける』における貴志は大胆極まりなく、かつ律儀である。ネタばらしにならないように気を付けて書くが、手がかりを早い時点で出すのは当然のこととして、その示し方に芸がある。真相を知ってから該当箇所を読み返すと、作者の律儀さに感心させられるはずだ。律儀というか馬鹿正直というか。いや、これ以上は書くまい。

心を鷲掴みにされる凄惨な取り調べ

 小説の後半にこんな文章がある。
“冤罪の『冤』という字は、ウサギが覆いの下で身を縮めている様を示している。拘束されることによって人は精神が委縮し、絶望から諦めを選んでしまうのだという。”

 そう、これは冤罪に関する物語なのである。
 日高英之に対する取調べは苛烈を極めた。日本の司法制度が代理監獄を容認していることはしばしば問題になる。黙秘をしようとするも許されず、取調べにあたる刑事が振るう暴力によって心身を痛めつけられながら、英之は自白に追い込まれるのである。冒頭から描かれるこの場面は実に凄惨で、いきなり心を鷲掴みにされる。

 物語の序盤で明かされるのは、英之の父である康信もまた、15年前に殺人事件の容疑者として逮捕され、警察から苛酷な取調べを受けて供述した自白によって有罪判決を受けたという事実だ。無惨なことに、収監後に体調を崩し、獄死してしまったという。彼は交通事故の後遺症で脳に障害があり、走り使いのような単純労働しかできなかったが、至ってまともな心の持ち主であった。その父が人を殺すはずがない、冤罪であったに違いない、という確信が英之の中にある。その彼もまた警察の強引な取調べを受けることになってしまったわけである
 親子二代にわたる悲劇という構図に意味がないはずはなく、物語においては初めから、英之が父の復讐を目論んでいるのではないかということが仄めかされる。その伏線が読者の心を騒がせる元凶なのだ。平沼精二郎殺害に関する現在進行形の裁判、平沼康信が無念の死を遂げる元となった15年前の事件という二つの謎があり、それがどうつながるのかという興味も浮上してくる。精二郎殺害は、車のエンジンに細工をして一酸化炭素を発生させ、中毒死をさせるというものだった。鈍器や刃物を用いての犯行ではなく、手の込んだやり口である。明確にすべき点が複数あり、それについても読者は注視していなければならない。さらに本郷弁護士が敵の石川検事を相手取ってどのような法廷戦術を使うのか、という興味が加わる。これでは読書に時間を奪われるのも無理もないだろう。

生来のエンターテイナー

 代用監獄と冤罪事件という重い問題を扱った小説だが、作者の筆致は軽やかで娯楽読物に徹している。読者を楽しませずにはいられない生来のエンターテイナーなのだ。貴志には過去に『青の炎』(角川文庫)というスリラー作品もある。家族を守るために義理の父親を殺すことを決意する少年を描いた犯罪小説だ。第1回山田風太郎賞を射止めた『悪の教典』(文春文庫)はソシオパスのシリアルキラーが主人公の物語であり、犯罪者の小説とは相性がいい。社会のこちら側からあちら側へと境界を乗り越えてしまう者、あるいは周囲の圧によって心ならずも犯罪者になってしまう者の心理を描くことに長けた作家なのである。犯罪者という烙印を押された者たちの苦悩と復讐の念を描く本作も、そうした作品群に入るだろう。

 気がついてびっくりしたのだが、貴志祐介は直木賞を獲っていない。『悪の教典』で第144回の候補になったのみである。おかしいだろう。もっと前に受賞していてしかるべきだ。壮大な未来絵巻『新世界より』(講談社)が最もふさわしい作品だったと思うが、直木賞はSFに冷たいから無理だったか。それを考えると、SFやオカルトの要素がない『兎は薄氷に駆ける』はあげ頃の作品である。この機会にぜひ。そして日本中の読者から時間を奪ってもらいたい。