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ソルレダ「わたしの中の黒い感情」 ネガティブな感情から自分を解き放つ案内書

自分を束縛してしまうあなたへ

不安

 以前、わたしは『耐えてみたらいいことばかり』という本を出版した。10年間のフリーランス生活をまとめたもので、そのときは、休みなく働いた自分を偉いと思いながら書いた。ところが最近、この本を開いても、どうしても最後まで読むことができない。当時、ずっと仕事ばかりしていた自分が、気の毒になったからだ。本の内容は変わっていないのに、自分を見つめる視線が、以前とは変わったのだ。わたしたちがやる仕事は、大きく分けて3つある。

 1.やりたい仕事 2.やるべき仕事 3.できる仕事

ここでいう「仕事」とは、お金を稼ぐ活動だけを指すわけではない。この本では、食べて寝てシャワーを浴びる、だれかに会って会話して、関係を維持する、散歩して買い物をして、本を読むなど、わたしたちが生きている間に行うすべての行動を「仕事」と呼ぶことにする。わたしたちの一日の中には、この3つの仕事がほどよいバランスで交ざっている。やりたい仕事をしばらくの間あきらめたり、やるべき仕事を優先するためにやりたい仕事を先送りしたりすることもある。いったんできる仕事をストップして、やりたい仕事を選んだりもする。では、この3つに、単語をひとつ加えてみよう。

 1.やりたい仕事→「どうしても」やりたい仕事
 2.やるべき仕事→「絶対」やるべき仕事 
 3.できる仕事→「必ず」できる仕事

 どうだろう? 少し変えただけなのに、ぐっとプレッシャーを感じるのではないだろうか。「どうしても」「絶対」「必ず」のような言葉をつけると、気軽に始めたことでも手抜きができなくなる。スタートする前にためらい、始めた後もやり遂げられなかったらどうしようと不安で押しつぶされそうになる。

 不安とは、先が見えないときに生じる感情だ。不安が耐えがたいレベルまで到達すると、「不確実」と同義語になり、ちょっとしたことにさえ、耐えられなくなる。

 不確実と一緒になった不安を和らげるために、わたしたちはできるだけ多くのことを予測しようとする。でも、未来をすべて当てるのは不可能だ。だから未来に向けて計画を立てるのだ。

 計画と規則は、状況に合わせて柔軟につくるほうがいい。そうしないと、自分でも気づかないうちに、「計画を守るための計画」や「規則を守るための規則」に悩むことになる。『耐えてみたらいいことばかり』には、目標、計画、規則、やることリスト、日程表という単語がたびたび登場する。その単語の間をぎっしりと埋めているのは、「成し遂げなければならない」「しなければならない」「できる」などの言葉だ。文章からは、決めたことをやり遂げられなければ、世の中が終わってしまうようなプレッシャーや不安が垣間見える。当時のわたしは、目標のためにつくった計画と規則を必ず守ろうと努力し、情熱のあまり、不安についてすっかり誤解していた。

 当時は、一度間違えば、すべてが台無しになってしまうと信じていた。ちょっと休むとあっという間にナマケモノになってしまうような気がしていた。過労で身体を壊しても、つらいけどがんばっているという奇妙な満足感を感じていた。でも、それはすべて間違っていた。合理的ではない考えにとらわれ、自分を騙しながら生きていることに気づかないまま、長い時を過ごしていたのだ。ずっとピリピリしてとがった性格になり、いつもビクビクしていた。不安ばかりを大きく膨らませながら。

結局、計画と規則にがんじがらめになり、強迫観念に追われる生き方になってしまった。不安は、消えるものではない。わたしたちが生きるために必要な感情、つまり原初的な感情だからだ。でも、不安が大きくなり、日常生活がコントロールできないほどになったら、不安の原因が何なのか考えてみなければならない。不安を感じたときに心を落ち着かせるための方法をあらかじめつくっておくのもいいだろう。大切なのは、不安をなくすのではなく、耐えられるレベルに和らげることだ。不安という感情が、わたしたちの中を何事もなく通り過ぎていくようにするのだ。

 わたしは、どんな状況で自分の不安が大きくなるのか知っている。その気配を感じた日には、やるべき仕事を急いで終わらせる。一通り終わったら、家で一番落ち着く場所に座り、買っておいたビールを飲みながら映画やドラマを見る。これが、不安に襲われる隙をつくらないために、わたしが編み出した方法だ。

心が休まる場所で、ビールを飲んで緊張を和らげる。ヘッドホンを付け、映画やドラマを見ると、頭の中にダイレクトに情報が入ってくるので、他のことを考えることもない。このように気持ちを他に向け、心が不安に侵食されないように、わたしは不安のレベルを低くする。
 だけど、家以外でこんなふうに過ごすのは難しい。

 そんなときは、深呼吸をする。腰まで空気が入るぐらい息を大きく吸って、2秒ほど止め、すぐに体の中の空気をすべて吐き出す。呼吸に集中し、空気の方向、呼吸する音、内臓の変化を意識しながら。これは、突然不安に襲われて心臓が爆発しそうになったり、手に汗をかいて背筋がひやっとしたりしたときにとても役に立つ。

 中国古典『兵法三十六計』には、36種類の戦術が書かれている。そのうち最上の策として挙げられているのは、36番目の「逃げる」だという。 いざとなれば逃げろとは、実に賢明な方法ではないか! 戦争では、生き残らなければ続きの人生が約束されないから。 わたしが不安を和らげる方法も、「逃げる」と同じかもしれない。不安からしばらく距離を置けば、心を癒して安定させる時間を稼ぐことができる。

 そして不安に感じた瞬間を思い出しながら、原因を探ってみるのだ。落ち着いた状態で自分の中の不安を見つめるのは、それほど怖くない。不安の理由は何かを考えるだけでなく、だれかにアドバイスを求めたりするのもいい。

 耐えがたい不安を感じたら、とりあえず逃げてみよう。ただし、自分を傷つけない方法で。自分の中の不安な気持ちを探求し、和らげる方法をいろいろ試してみるうちに、自分に合った「逃げる方法」が見つかるだろう。

選択を前にためらうあなたへ

悩み

 「悩み」と「葛藤」。この2つは、どう違うのか。一番の大きな違いは、それぞれの感情をもたらす存在の数にあるとわたしは考える。「葛藤」は2つ以上の目標や状況がある中で生じる、利害関係や欲求のぶつかり合いを意味する。一方、「悩み」は、ある特定の対象にたいして感じる心配や不安を対象にしている。

 「悩み」と「葛藤」の微妙な違いを一言で表すと、次のようになるだろう。「ランチに何を食べるか、悩んでいる。ハンバーガーか、ビビンバか。ずっと葛藤している」。

 みなさんは、「悩み」という単語を聞いたら、何が心に浮かぶだろうか。おそらくほとんどの人が、自分が今抱えている問題を挙げるだろう。では、その中でもしばしば悩みの種になる「仕事(労働)」を例に話を進めてみよう。

 生活していくうえで、仕事はとても重要だ。仕事は、食べるために必要なお金や、社会の一員として役割を果たしているというやりがいをもたらす。自分の社会的な価値を評価する基準にもなる。仕事を「労働」と「遊び」の2つに分けてみよう。「労働」はわたしたちの時間や努力によってお金や報酬をもらうこと。

 「遊び」は、文字通り遊ぶこと。このように単語の定義ははっきり異なるけれど、実際のところ、労働と遊びは混ざり合っている。だから、わたしたちは労働をしながら遊びから得られる楽しさを期待し、遊びながら労働から得られる報酬を望むのだ。ところが、二次的に得るべきもの(労働をしているときに感じる遊びのような楽しさ)のほうに期待しすぎてしまうと、心のバランスが崩れてしまう。

 わたしが描く絵は、2つに分けられる。依頼されて描く絵と、自分が好きで描く絵。前者は「労働」で、後者は「遊び」だ。描くことは、労働をするときは「手段」であり、遊ぶときは「目的」だといえる。お金を得るために描く絵は、つらくて途中でやめたくなることもある。締め切りぎりぎりまで、ずるずると後回しにしてしまう。自分の時間と努力でお金をもらうために精神的に追い込まれ、楽しさを味わえないときもある。しかし、好きで描く絵は、描くこと自体が目的で、それ自体に価値がある。だから、時間と努力、場合によってはお金を投じても描き続けたいと思うなら、たとえ簡単ではなくても、むしろゲームをクリアするように、楽しんで取りくむことができるのだ。

 わたしは絵を描きながら、労働と遊びが共存する生活を送っている。2つのバランスは完璧ではない。でも、労働のほうが多くなったり、遊びのほうが多くなったりすればそれなりに、うまくバランスを取ろうとしている。「趣味は仕事(職業)にしないほうがいい」という言葉がある。労働よりも遊びを選びながら報酬も求めて苦しんでいたころ、その言葉を聞いてとても悲しい気持ちになった。生活のための仕事と好きなことは一致していると信じていたから。でも、今ではその言葉に共感できる。

「ああ、もっと早くこの言葉の意味を理解するべきだったのに!」と後悔するほど。

 悩みには、3つの特徴がある。

1. 悩みは、まだ実行していないことにたいする心配と期待から生まれる
2. 悩みは、選択したことの結果(得失)がはっきりしないために起きる
3. 悩みは、「善か悪か」「白か黒か」のように二元論的な基準で人生を捉える、柔軟性を欠いた視点によってもたらされる

 「夢の実現=好きなことを仕事(職業)にする」が真理であるかのように感じるのは、3番目の特徴によるものだ。「好きなことを見つけて、それを職業にするために挑戦し努力する人生が望ましい」という考えは、一見真実のように思える。しかし、このような人生を目指すことだけがただひとつの真理であるかのように考えること自体が、幻想だと思う。「好きなことを仕事(職業)にしてこそ、いい人生を送ることができる」という雰囲気があるかもしれないが、好きなことを職業に選ばなかったとしても、間違っているわけではない。次の質問で、考えを整理してみよう。

1.「 好きなことをする」という場合の「好き」は何を意味するのだろうか?
2. 好きなことを見つけなければならないのか?
3. 好きなことを見つけられない人生に意味はないのか?
4. 必ず好きなことでお金を稼がなければならないのか?
5. 好きなことでお金を稼げない場合、それをあきらめるべきなのか?
6. できることと好きなことは、必ず一致していなければならないのか?
7. できることと好きなことを共存させるのは不可能なのか?

 みなさんは、それぞれの質問にどんな答えを思い浮かべただろうか。また、上の7つのほかにも質問が浮かんだだろうか。

疑問を整理すると、もやもやした心がすっきりする。質問は、答えを見出す手段となるだけでなく、自分の考えを導くための光にもなる。必ずしも正解を見つけようとするのではなく、自分の考えがはっきりし、質問自体が光なのだと思えるようになれば、心が明るくなり、悩みも解決するだろう。もちろん、悩みながらも結局選ばなかったことについては、後悔が残るかもしれない。しかし、その感情を受け入れれば、わたしたちは悩みの沼から這い出ることができるのだ。

失敗ばかりしているあなたへ

失望

 わたしたちは期待通りの結果にならないと、「失望」する。これと似た言葉に、他人との競争で負けている、他者と比べて劣っている感覚を意味する「劣等感」がある。あなたが感じる気持ちは「失望」なのか「劣等感」なのか。区別してみるのもいいだろう。

「あきらめるのはキャベツの葉を数えるときだけ」というジョークがある。初めて聞いたときは、「ねばり強く最後までやり遂げる」という意味だと理解していた。ところが、視野を広げてもう一度考えてみると、「間違ったことをやっていたとしても、人生をあきらめない」というふうにも思えてきた。 多くの人が、消えてしまいたいぐらい心がぐちゃぐちゃで苦しいときには、宇宙の映像を見るという。わたしもカール・セーガンの『COSMOS』(朝日新聞出版)という本に夢中になって以来、宇宙の映像をよく見ていた時期があった。自分が感じていた失望がちっぽけに思え、平和な気持ちになれるのだ。「あきらめる」ことの意味について考えることと、宇宙の映像を見ること。この2つは、シチュエーションがもたらすネガティブな感情に固執しないという点で共通している。これは、感情に向き合う心を健康な状態にするために、とても大切だ。

 わたしたちは、心を言葉に閉じこめてしまうことがある。経験談をお話ししよう。ある時期から、わたしは「休みたい」とひんぱんに口にするようになった。友だちや知人に会うたびに「休みたい」「旅に出たい」と愚痴をこぼしていたのだ。特に仕事に追われていたわけでもなかったにもかかわらず。ベッドに寝ているときでさえ、休みたいと思っていた。そんなふうになってしまったのは心を言葉に閉じ込めていたせいだと、後になって気づいた。わたしは「休みたい」という言葉に固執していたのだ。仕事をしながらも「仕事をしなきゃ」と自分を追い込んでいたように、「休まなきゃ」と思いつめることで、かえって自分を疲れさせていたのだと気がついた。その後は「休みたい」という言葉を意識的に使わないようにした。代わりに「昼寝がしたい」「公園を散歩したい」「いつものカフェに行きたい」「漫画を読みたい」など、はっきりと、そして軽やかに休む方法を決めるようになった。そのうち、「休んでいても休みたい」と思うことはなくなった。

 さて、話を「失望」に戻そう。わたしたちは「あきらめる」や「失敗」という言葉に、いともたやすく自分を閉じ込めてしまう。わたしが「休む」という呪いにがんじがらめになってしまったように。そんなときは、「あきらめる」や「失敗」という言葉を、もっと気軽に受け止めてみよう。一瞬だけ停留所に停まり、通り過ぎるバスのように。「そんな簡単にできることではない」という人もいるだろう。でも、それは本当に難しいことなのだろうか。難しいと決めつけているだけではないだろうか。もしそうなら、考えを変えてみればいい。最初は抵抗があるかもしれないが、それは心が「あきらめる」ことに適応する前に発するサイン。積極的に何度も挑戦すれば、言葉の呪いから脱することができるはず。「失望」は重くのしかかり、わたしたちを簡単に沈めてしまう感情だ。だから襲われるたびに自分を救い出す努力をしなければならない。「もう終わったことは、仕方がない」と、自分に説けば、「失望」から「後悔」「自責」「自己嫌悪」などに続く鎖を断ち切れる。「考えを変えるのは難しい」と決めつけて、チャンスを逃してしまわないように。タイミングをうまくつかめば、必ず効果はあるはずだ。

 失敗を「経験」だと考える人も、「傷」と捉える人もいる。「経験」だと考える人は、失敗を通じて自分の限界や長所と短所、欲望に気づくことができるだろう。結果、失敗はその人の心の資産になる。一方、ただの「傷」とするのであれば、失敗した原因はずっと解決しないままだ。このように、考え方の違いは、わたしたちの感情や行動をがらりと変える。失敗は失望をもたらすけれど、それをどのように捉えるかは自分で決めることができるのだ。みなさんは、どうだろう。わたしは苦痛は短く、メリットは大きくなるように考える努力をしたいと思う。

 失敗という言葉を使うのは、苦しい状況におかれたときだ。それでも自分自身の気持ちが軽くなるように努力して、自責の念を抱きつつ、ある瞬間、失敗をひとつの経験として受け入れられるようになったなら、失望という感情は消えていくだろう。そして失敗という名の苦しみに再び直面したとしても、そのときはもう、失敗から得るものを見つける術を身につけているはずだ。このような姿勢は現実的で、ポジティブな生き方だと思う。
みなさんも、合理的で前向きな考え方を身につけて、失望を和らげることができますように。そして、小さな失望の経験を成長の糧にできますように。