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「密航のち洗濯」 荒波に揺れ続けた「在日の風景」 朝日新聞書評から 

評者: 安田浩一 / 朝⽇新聞掲載:2024年05月04日
密航のち洗濯 ときどき作家 著者:宋 恵媛 出版社:柏書房 ジャンル:ノンフィクション

ISBN: 9784760155569
発売⽇: 2024/01/15
サイズ: 18.8×2.2cm/336p

「密航のち洗濯」 [文]宋恵媛、望月優大[写真]田川基成

 いまの時代に「密航」を語ることの危うさは私も十分に理解している。排外主義者たちは過去の「密航」を根拠に、一部の在日朝鮮人に「不法滞在」なるレッテルを貼り、ヘイトスピーチをぶつけている。だが、だから何だというのだ。植民地支配で土地を奪われた朝鮮人にとって、日本敗戦後の「密航」は生きるため、食っていくための手段に過ぎない。そもそも「大日本帝国臣民」であることを強いられた人びとには、日本へ渡るにそれぞれ十分な理由があった。
 混乱した祖国に見切りをつけ、玄界灘を渡ったひとりに、作家の尹紫遠(ユン・ジャウォン)(1911~64)がいる。彼の名を知る人はそう多くないはずだ。本書によれば彼は戦前戦中に何度か日本との間を行き来している。最後の渡日は46年だという。敗戦後という状況を考えれば、それを「密航」だとしてもおかしくはないだろう。53年間という短い生涯で、この無名の在日朝鮮人作家が商業出版できたのはわずかに2冊。それでも人目に触れる機会の少ない文章を書き続けた。
 そんな彼と家族の軌跡を追ったのが、在日朝鮮人文学史などを専門とする宋恵媛(ソン・ヘウォン)と、日本の移民文化を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長の望月優大である。2人の著者は、紫遠が書き残した日記や著作を手掛かりに緻密(ちみつ)でていねいな取材を重ね、辛苦に満ちた〝在日一家〟の人生を描く。
 前半のハイライトは韓国取材によって明かされる「密航」への道のりならば、後半で映し出されるのは「日本人でもあり、外国人でもある。日本人でもなく、外国人でもない」と著者が表現する〝在日の風景〟である。売れない作家は東京都内に「洗濯屋」を構えるが、これまたうまくいかない。まさに赤貧洗うが如(ごと)し。もがき苦しんだのは紫遠だけではない。裕福な家庭で生まれ育った日本人の妻・登志子は紫遠と結婚したことで戸籍上の朝鮮人となり、差別と貧困の中で修羅の道を行く。3人の子どもたちも含め、家族は常に揺れている。紫遠が玄界灘を渡った時から、彼の周囲で荒波がうねりを鎮めることはなかった。
 紫遠は短編小説「人工栄養」の中で、主人公に悲痛な決意を吐き出させている。
 「おい、ぬかるみから出るんだ!あせらずにな!一歩、一歩!」
 それは時代の「ぬかるみ」にはまり続けた紫遠自身の叫びでもあった。
 本書はけっして〝美しい家族の物語〟ではない。息苦しくなるような時代の記録だ。難民・移民に冷淡な日本社会の姿もあぶりだされる。
    ◇
ソン・ヘウォン 博士(学術)。著書に『「在日朝鮮人文学史」のために』など▽もちづき・ひろき ライター。著書に『ふたつの日本』など▽たがわ・もとなり 写真家。写真集に『見果てぬ海』など。