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鴻巣友季子の文学潮流(第15回) 話法の魔術で読ませる「約束」と「みどりいせき」

©GettyImages

南アの農場主一家の没落をドライな文体で

 今月の「文学潮流」は、作風は対照的ながら語りに独特のドライヴと魅力のある2作をとりあげたい(詳しい内容や展開にふれるのでご注意ください)。2021年のブッカー賞を受賞した南アのベテラン作家デイモン・ガルガット『約束』(宇佐川晶子訳、早川書房)、2024年の三島由紀夫賞を受賞した日本の新鋭作家大田ステファニー歓人『みどりいせき』(集英社)だ。

 ガルガットの『約束』は、南アのある農場主一家の没落の物語であり、ずばり傑作である。アフリカーナー(Afrikaner オランダから入植した白人を中心とした民族集団)のスワート家の30余年におよぶこのサーガは、アルコール依存、狂信による凄惨な死、強盗殺人、不義の愛、改宗への批判、恥辱の果ての拳銃自殺などを扱い、内容的にはかなり暗い。フォークナーの最もグロテスクな作ほどではないにせよ、大江健三郎の『万延元年のフットボール』に匹敵するほどの陰々滅々さと言っていい。

 とはいえガルガットの文体およびトーンは大江の中期以降のそれの対極にあり、非常にドライでクリスプである。ごくうっすらとコミカルなタッチすらあって、読み通すのは苦ではないので、その点はご心配なく。

 全編は、一家の父、母、長女、長男という4人をそれぞれ起点にして書かれた4章に分かれ、タイムラインは前後する。大枠は三人称の俯瞰視点だが、各人の内面視点がひんぱんに交錯し、この視点移動のなめらかさは、ヴァージニア・ウルフもかくやという見事さだ。1章ごとに10年の月日のジャンプがあり、そのたびに葬式がある。そう、上の4人はほぼ10年おきに死んでしまうのだ。葬儀の場には疎遠になっていた親族も集まりものごとが進展するので、それを支点として選んだとガルガットは言っている。

 物語の始まりは1986年、同国のアパルトヘイトが国際的問題となり、アフリカーナーに苛烈な批判が向けられていた頃だ。その後、南ア共和国は劇的な変容を経験する。長く投獄されていたネルソン・マンデラが90年に釈放され、91年にアパルトヘイトが撤廃。南アの白人らはアイデンティティの危機や喪失に直面した。これらの問題についてはJ.M.クッツェーが『恥辱』で描いているが、全編を現在時制で書ききった『約束』は、物語記述に過去時制形を用いなくなったクッツェーからの影響もありそうだ。

宗教、信心が物語の駆動力に

「母さん(マー)」と題する第1章では、一家の母レイチェルが逝去。13歳の末娘アモールはそれを受け止めきれずにいるが、レイチェルは(叔母いわく)夫への嫌がらせのためにプロテスタントからユダヤ教に改宗(復帰)したのだと言う。父はアルコール依存に陥っていた。

 アモールは生前の母に父がしたある約束を忘れない。何十年と一家に仕えた家政婦のサロメと息子を住まわせてきた家を、彼女に譲るという約束だった。アモールはそれを家族の集まりで訴えるが、一笑に付されてしまう。アモールは看護師として国外を転々とすることになり、長男のアントンも軍を脱走して逃亡生活に。彼はかつて暴動で投石しようとした女を軍人として撃ち殺し、それがトラウマとなっている。

 第2章「父さん(パー)では、父のマニが宗教に「目覚めた」ことから起きる悲劇が軸となる。マニはある牧師の教えに入れこみ、コブラを何匹も放ったガラス箱に入って毒蛇に咬まれ、死んでしまうのだ。

 一体なぜそんなことを? (アントンいわく)父は「エセ牧師」に騙され、教会への資金集めのためにそんな見世物をやらされたのだと言う。毒蛇の巣でサタンと取っ組みあって生き延び、信仰の力を示そうとして失敗したのだ、と。葬式で家に戻ってきたアモールは例の約束の履行を主張するが……。

 第3章「アストリッド」では、離婚と浮気を繰り返す長女アストリッドの空虚な精神が浮彫りになる。現夫ジェイクの同僚の黒人男性とも不倫をし、改宗したカトリックの神父に告解を繰り返すが、その所業は改まらない。しまいには治安と風紀のわるい街で車両強盗に押し入られ、非業の死を遂げる。アストリッドの夫はカトリック神父の元を訪れて、妻の告解内容を執拗に尋ねる。

 第4章「アントン」では、アントンの鬱屈が描かれる。小説を書いていると本人は言うが、まるでものになっていない。妻デジレは東洋の瞑想指導者に惚れこみ、密通している様子だ。アントンは酔って帰宅した家でふたりの姿を当たりにした日、妻と口論のさなか自らの敗北を思い知り、狼狽と絶望の果てに拳銃を手にとる……。

 物語の最後にいたって、姿の見えなかったサロメが登場する。履行されずにきた約束はどうなるのか?

 拠りどころを失い、信じるものを求める人びとの物語である。スワート家の人びとは信仰に関してばらばらの状態にある(プロテスタント、カトリック、ユダヤ教、東洋思想、無神論)が、宗教、信心が物語の大きな駆動力になっている。不義の関係、カトリック神父への告解、死に際での改宗、思想への傾倒、小説家の存在、これらの要素とその組み立て方からして、グレアム・グリーン『情事の終り』というプロトタイプが下敷きにあるのは明らかだろう。

 いまの時代、かれらの身近にカルト宗教があれば、はまりこんでいたかもしれない。本作中で延々と反故にされる「約束」とは、南アの黒人やカラードの人たちに対して国が宣言したものの不履行のままの様々な約束が姿を変えたものでもあるだろう。南アの失業率はいまも高く、犯罪率は増加し、かれらの生活を改善するという国の誓いは実現していない。

現在時制で軽やかな印象

 ところで、ちょっと技法的な話。こんなに題材・内容の重い小説が、なぜ軽やかに読めてしまうのか。一つは、会話体にカギカッコ(原文なら引用符)を使用せず、セリフと地の文を融通無碍に地続きにしていること。もう一つは、現在時制で全編を書き通していること。

『約束』は地の文に人物の心理や心の声が書きこまれ、これらがセリフと一体化しているためか、本作を「意識の流れ(stream of consciousness)」に分類する向きがあるが、「意識の流れ」という用語は最近濫用ぎみではないか。内面描写や、さらには単なるモノローグまでそう呼ばれることがある。少なくとも、ジョイスやウルフのそれはまさに人の意識の流れをそのまま追うものを指し、『約束』のように整然と編集された記述ではない。

 では、本作の技法的はなにかといえば、自由間接話法と自由直接話法(内的独白)を使った内面描出である。テクストを支える作者の全知視点がしっかりある。

 次に現在時制について。なぜいまどきの英米の小説家がこぞって過去時制を使わずに書くのかといえば、書かれた事象の完結化・固定化ひいては物語化を避け、語りの独裁に陥ることを避けるためなのだと私は考えている。かたや現在形は、不変性、普遍性、反復性、そして未決性をもち、過去になっていないなにかを表す。

「アモールはシャツを着た」と作者が書けば、それはすでに起きたことで覆らない。しかし「アモールはシャツを着る」という現在形は既定と未定の狭間にある。これが軽やかな印象に寄与してもいるのだろう。ちなみに、クッツェー研究者である田尻芳樹は「(現在時制は)ある種の開かれを担保する」ので、クッツェーの意にかなうのだろうと指摘している。

 ガルガットはセリフを引用符からほどき、話法をぞんぶんに暴れさせながら、これだけ堅く手綱をとっているのだから、名人芸と言うほかない。

「意識の流れ」の現代的な名人芸

 では、「意識の流れ」とはどんな技法かと言えば、直近の好例は大田ステファニー歓人『みどりいせき』だ。一部にこれを導入している。不登校すれすれの高校生と、かれが引きこまれた仲間の違法薬物取引き、薬物によるトリップなどが描かれ、背景にはコロナ禍とそれによって収入減の一人親家庭がある。本作もかなり危うい内容だが、『約束』と同様語り口は重くない。重力となるような留めを敢えてもたず浮遊しているような文体だ。

 モノローグの語り手となるのは桃瀬翠という男子高校生。あるとき、小学校のときに野球のバッテリーを組んでいた春と校内で再会する。ちなみに春は女子ピッチャーで、どんな男子も打ちとれない球を投げていたようだ。ところが、春はいまではルルと呼ばれ、違法薬物の仲介に手を染めている。翠はそのことに気づかない。

 物語はむかし春と出場した野球の試合の場面から始まるが、ちょっと面食らうだろう。春が放ったシュート回転の直球がキャッチャーの翠にぐんぐん迫ってくる。強い衝撃があって、彼は「後頭部が、ぐぎん、って着地」「頭ん中に細胞よりちっちゃなジョエル・ロスが登場して、ドレッドを振り乱しながらビブラホンを爆音で鳴り響かせる」「自分が誰なのかもおぼつかなくなる。落ちる直前に、チップをキャッチして揚々と返球する並行世界のぼくと目が合った」「ここは母宇宙なのか娘宇宙なのか。あるいはバルク。どっちゃ無。からのインフレイション。そしてビッグバン」とつづく。

 そして次の項では、「まぁ、そんなこんなで宇宙はきゅん、とか、ぴえんだとか音をたてながら百三十八億年くらいずうっと無茶な成長期」にあった後、いろいろ、いろいろ、起きて「昨日はにんにく食べすぎちゃったし」と現在の「僕」に戻ってくるまで4ページ半。冒頭は回想と意識が飛んだ最中の幻だったらしいとわかる。

 大田の文章は、若者独特の言いまわしとジャーゴンと薬物界隈の符牒だらけで、「ギャルピ」「しごおわ」「パッキパキ」などの言葉が飛び交う。とはいえ、ぶっ飛んでいる本作、リズムや臨場感、あるいは“トリップ”の現前性を重視した内面描出などは、現在形になっているが、ベースは過去形で書かれ、意外とクラシックな物語話法の骨格を保っている。また、終盤では主人公のまっとうな反省と自己認識もあり、その意味でも正統派の青春小説だ。こちらも名人芸。