ISBN: 9784309231570
発売⽇: 2024/06/24
サイズ: 13.2×19.1cm/466p
「非美学」 [著]福尾匠
カントが認識の条件を「批判」の名のもとに吟味した哲学者だとしたら、ドゥルーズは創造の条件をカント的に(さらにカントを超えて)問い直した哲学者である――博士論文をもとにする本書の立場はそう要約できるだろう。ドゥルーズによれば、創造一般というものはない。創造は異なる分野との接触や干渉、そして諸能力の組み換えのプロセスである。その具体的な諸相を概念的に捉えること、それが本書の狙いである。
ドゥルーズは社会を複数の機械の連合体と見なしたが、それは他者からの「触発」がたえず起こる喧騒(けんそう)の場でもある。言語はこの錯綜(さくそう)体を秩序化するが、その秩序は知的能力の生み出す錯覚にすぎない。このような人間的な錯覚から抜けだし、言語やイメージのもつ本来の力をつかむために、ドゥルーズは映画とともに哲学し、独自の地質学的な概念も駆使した。
その一方、著者はドゥルーズやデリダに「触発」された日本の現代哲学のエッセンスも取り出そうとする。特に、東浩紀、平倉圭、千葉雅也の三者は、安定的な意味のシステムを脱構築するのに、偶然性・複数性・有限性にアクセントを置いた。著者はそれらを「非」の哲学としてまとめつつ、その先に、触発と自律を共存させる「非美学」なるものの可能性を浮上させる。それはドゥルーズの創造の哲学への、著者なりの応答なのだ。
本書は大きなテーマに挑んだ意欲作だが、読みやすいとは言えない。予定調和を避けようとするあまり、論旨がうまくつながらない箇所も散見され、理論書としてのレイアウトは良くない(これは編集の問題でもある)。ただ、この生みの苦しみも「創造」の不可欠の一部なのだろう。生成AIが創作行為をますます脱神秘化する時代にあって、ドゥルーズ哲学はどこまで有効性をもつのか。難解さで幻惑せず、哲学を批評的に機能させること、それは依然として大きな課題である。
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ふくお・たくみ 1992年生まれ。哲学者、批評家。著書に『眼がスクリーンになるとき』『日記〈私家版〉』など。