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朝倉かすみ「よむよむかたる」 豊穣で複雑、ありのままを描いた高齢者小説の傑作!(第18回)

©GettyImages

後期高齢者が集う賑やかな読書会

 小説はここまでしなければならないものなのか。
 ここまでするから小説なのだな、と改めてその奥深さに感心させられたのである。
 朝倉かすみ待望の新刊、『よむよむかたる』(文藝春秋)だ。
 一口で言えば読書会小説である。
 舞台は北海道小樽市、古い民家を改造した喫茶シトロンという店である。バス停でいえば「入船十字街」と「住吉神社前」のあいだに位置するという。そこで「坂の途中で本を読む会」が開かれている。坂のまち・小樽に住む人々が、人生という坂の途中で本を読み、大いに語り合うというのが趣旨、間もなく設立から20周年になる。
 ご多分に漏れずコロナ禍のため休会していて、3年ぶりの再開という日に物語の幕は上がる。大きな変化が一つあった。28歳の安田松生が、新たな店長として会のメンバーを迎えることになったのである。オーナー兼前店長の叔母・美智留が事情あって函館に引っ越したため、埼玉県朝霞市に住んでいた安田が呼び寄せられたのである。
 この安田が視点人物となる。会は最年長が92歳、いちばん下でも78歳という後期高齢者の集まりで、孫どころか曾孫といってもいい安田は、彼らの言動に初めは驚きの視線を向けることになる。もちろんそれは、読者の気持ちを代弁することにもなっているわけである。「1 老人たちの読書会」は彼の驚きが書かれる章で、会のメンバーであるまちゃえさんとシンちゃんの夫婦を見れば  「もうすぐ、死がこの二人を分かつだろう。そうだ、死は、愛し慈しむ者たちを分かつんだ」と当たり前のことに改めて気づかされることになる。

 すでに朝倉には、老いをテーマにした『にぎやかな落日』(光文社)という作品がある。自身の母親をモデルに、周囲の事情など一切忖度せず、我が道を突き進む老人像を描いて暖かな笑いを産む連作短篇集だった。そのユーモアは本作でもいかされていて、この第1章でも安田はカルチャーショックと言っていいほどの衝撃を受ける。20年前に発足のきっかけを作ったことから今も会長と呼ばれる88歳の男性が、亡き妻を偲んでしんみりと話しているとき、「そうなのサァ!」と82歳の通称マンマが突然割って入るのである。「こんなにきれいに空気を壊す瞬間を見たのは初めてだ」と安田は思う。だが、それが日常なのである。ありのままを描いた老人小説として本書はまず素晴らしい。
 会のメンバーは他に元中学校教師の通称シルバニア、同じく元中学校教師の蝶ネクタイ、いずれも86歳である。埼玉から来て北海道弁ネイティブではない安田に、蝶ネクタイがいちいち言葉の解説をしてくれるのが可笑しい。会長、シルバニア、マンマ、蝶ネクタイ、まちゃえさん、シンちゃんの6名にやっくんこと安田が加わって話が進んでいく。
 実は安田は、新人賞を獲ってデビューし、著書も1冊ある小説家なのである。しかし、ある出来事がきっかけで書けなくなってしまっていた。現役の作家がいることは会にとっては益であると、名誉顧問兼書記として迎え入れられる。「坂の途中で本を読む会」の活動内容は、1冊の課題書を決めて順番に声を出して読み、各自がそれぞれの解釈、すなわち読みを語るというものだ。だから『よむよむかたる』なのである。「2 いつかの手紙」からの前半部では、この活動を通して安田が小説を読むという行為に秘められた可能性を再発見していくことが主たる関心になっていく。小説の小説としての性格が鮮やかに示される。
 会員たちが語る読みを聞いた安田は「ぼくたちは、いま、この物語を思い思いに体験している」と考える。朗読を聴くと、「なにか、ちょっとしたこと」に気づくことがある。「黙読ではスーッと通り過ぎた箇所だったりする」が「本と自分だけの関係だったところに、別の視線が差し込んで新たな気づきがひらく」のだ。
 安田が小説を書けなくなったのは、編集部宛に剽窃を疑う匿名の手紙が届いたからだった。「アイディアたちの餌の主な成分は先行作品」なのだが、それさえもパクリと呼ばれることになるのかもしれないという危惧が手を止めてしまったのである。こうした安田の心の引っかかりは、小説の成り立ちについての根源的な問いへと読者を誘う。

小説を読むことで新たな自分を見出す

 会員のまちゃえさんは、若くして亡くしてしまった明典という息子のことを折に触れては思い出して涙にくれる。読んでいる小説のエピソードからも、周囲には強引と思えるような連想で息子の回想に結び付けてしまうのである。そして、その中身は何十年もの歳月を経て改変されている。本人により、本人のために改変された記憶は現実を再構成した物語である。安田はまちゃえさんの物語を聴き、「語るにせよ書くにせよ、ある程度の誇張はつきものだ」と思う。現実そのものではない物語のありようについての言及がここにもある。
 ここまで書かなかったが、3年ぶりに再開した会の課題作は佐藤さとる『だれも知らない小さな国』(講談社 青い鳥文庫)である。少年とコロボックルの出会いを描いたこの童話を、会の人々は、助かる見込みのない患者の元に現れて安らかな死をもたらしてくれるという「おみとりさん」の伝説と絡めて読んでいくのである。死の影は常に物語に寄り添っており、後半の「5 冷麦の赤いの」で一気に表面化する。それまでは、高齢ではあるものの無類に元気でわがままな人々として描かれてきた会員が、そう遠くではないところに死の迫った老人であるということが不意に告げられるのである。緩やかな死を描くという隠れた手段がここで浮上してくる。
 仕掛けがもう一つある。この小説におけるジョーカーは安田で、喫茶シトロンは少年期の彼が叔母に可愛がられて過ごした懐かしい場所であった。その記憶の断片が物語には挿入される。本書にはヒロインが3人いる。 ひとりはある恋愛の当事者である可能性が浮上してくる叔母・美智留だ。ふたり目が安田の回想に登場する、いつも『とっとこハム太郎』のぬいぐるみを抱いていた少女、そして物語中盤で登場してくる、市立小樽文学館職員の井上だ。井上は背が高く、挙動不審で、何かあると自虐的なことを口にする印象深いキャラクターである。この3人の線がどのように交差していくかということが、物語後半の関心事になっていくのである。

 老人たちの読書会に安田は遭遇し、初めは観察者として参加するものの、次第にそれに同化していく。小説を書くことに疲れた主人公が小説を読むことで新たな自分を見出すわけである。さらにそこに彼自身の過去を発見するという過程が加わり、複数の物語が安田の中に構築される。彼と視点を共有する読者もまた、重層的な物語を内側から体験することになるだろう。高齢者たちの賑やかな読書会を描いた小説、と単純に要約できるのに、内実はこのように豊穣で複雑だ。そうか小説にはここまでのことができるのか。
 朝倉の魅力は、豊かな喩えの表現である。会のメンバーが笑うとき「最初はどっちつかずのにやにや顔だったが、お湯を注がれた貝みたいに、ぱかっつ、ぱかっとひとりずつ口がひら」いていく。ある人の深い哀しみに触れたときのことを叔母の美智留は「暗闇に触れているような気がした。停電の夜にスマホを取りに歩くときの、伸ばした手の、指先に触れる、暗闇の」と表現する。この視覚的鮮やかさは朝倉作品でしか味わえないものだ。すべて引用したくなるが、未読の方のために控えておこう。味わっていただきたい。これが小説の文章というものである。