「大ブログ時代」を生き抜いた末に
――くどうさんは10代のころから日記を書かれてきたそうですね。日記を始めたのは、何かきっかけや理由があったんでしょうか。
個人的な理由などはなくて、私が中学生のときって世の中が「大ブログ時代」だったんですよ。芸能人はもちろん、誰もがブログをやっていて、ブログ本も売られていました。そのころには書くことがもう好きになっていたので、特に意気込むこともなく、素直に私も書いてみたいと思ったんです。
そんなふうに時代の流れに乗って日記ブログを始めたら、徐々にみんなが辞めていって生き残ってしまったという……。続けようという強い意志があったというよりは、ブログに日記を書く生活を送っているうちに、習慣として生活の中に組み込まれてしまった感じがします。いまは日記用のGoogleドキュメントに適宜書いていて、ブログとして公開しているのは公式ホームページにたまにアップするものくらいです。
――日記をつづる暮らしに憧れて毎年のように年始めに書き始めるのですが続かなくて、虫食い状態の日記帳がずっとあります。でも、『日記の練習』の冒頭を読んで、空白部分も含めて私の「日記」なんだって、すごく励まされました。
「日記を書きたいと思うきもちを持ち続けている」それだけでもう、ほとんどあなたの日記は上出来だ。きょうも書きたかったけれど書けませんでした、という一文が透明な文字であなたの肋骨の裏に浮かぶようになれば、それはもう日記なのだ。
くどうれいん『日記の練習』(NHK出版)より
15年近く日記を書いていても、今回の本の「日記の練習 10月」みたいに、全然書けないときもあるんです。しかも、日記には日付があるから、書いている部分は毎日書いているかのように見えますけど、実際は翌朝に書いたり数日分をためて一気に書いたり。日記って、一日の終わりにその日を振り返ってしたためるイメージがありますけど、全然その必要はないんですよ。
――自分のタイミングでいいんですね。
そうそう。ただ、やっぱり忘れちゃうこともあるから、「これは日記だ!」って思ったら、その場でメモすることもあります。
――「これは日記だ!」という瞬間って?
私の場合、基本的には他者が何かしら関わっていることが多くて、日常に潜むエラーみたいなものに遭遇したとき、ですかね。例えば、エスカレーターに乗っていたら、前にきれいなお姉さんがディオールの紙袋を持って立っていて、ふと紙袋の中を見るとマキタのドライバーが入っていたこととか。借りたのか、返してもらったのか、買ったのか、真相はわからないけど、ディオールの紙袋にマキタのドライバーが入っているという状況にぐっときてしまうんです。
――ちぐはぐなところに、おかしみがありますね。
あと、当人たちにとっては当たり前でも周りから見たら「なんで⁉️」っていうことにもすごく弱いです。とある出版社さんに行ったときに、「コピー用紙とってもらえる?」「どの大きさですか?」「板のり!」「わかりました」という会話が聞こえてきて、「え、わかるんだ!」って思ったことがありました。どうやらA4サイズだったみたいなんですけどね。
「生身の私」のために「日記の私」が書く
――いまもデジタルで日記を書かれていますが、ノートや日記帳といったアナログな方法で書くこともありましたか。
手書きだと、書こうと思ってもなぜか続かないんです。しかも、自分ひとりが読む形だからか、ものすごいうっとりしたものになってしまって。後から読み返したらきもち悪くなっちゃうようなことを手書きだと書いてしまう。ある程度、人の目を気にしながら書いた方が自分との距離感が適切で、読み返したときに自分がうれしいんですよ。日記って自分のために書いているものだと思うから、書いているときの私も、読み返したときの私も、うれしい、楽しいものとして残したいきもちがあります。
高校時代、同級生のほとんどがブログを書いていて、どんな子も対面で会うイメージとブログの書き味って違うんですよね。日記というものと向き合ったときに出てくる人柄みたいなものは、誰しもあると思います。私も15年近く日記を書いてきて、書き過ぎたと思った日や書いておけばよかったという日もあって、私なりにトライ&エラーを重ねてきたうえで、日記用の人格、編集のまなざしのようなものが確立されてきた気がするんですよね。今回の本も日記だからといって、私のすべてを赤裸々に書いているわけではないんです。
――本書の後半ではけっこう感情の浮き沈みを書いていて、なかなかそういう部分は表に出しにくいんじゃないかなと思ったのですが……。
もちろん1年分の日記をまとめて振り返ってみると、しんどいときや弱っているときはあります。でも、後から自分が読み返したときにやっぱりおもしろいって思いたいから、自ずとしんどさや弱さを実直に書く必要がなくなるんです。だから、私の日記にあるのは、ある意味「編集された」しんどさや弱さなんですよね。
――くどうさんは、どんなときに日記を読み返すんですか。
最新の自分から未来の自分に自信がないとき。私にとって日記って、何かを乗り越えたり成長や努力したりするための記録では全くなくて、自信がないときにいったん後ろを見て「変わらないね」「どうしようもないね」って笑い飛ばすために書いている感じなんですよね。それで、「ああ変わっていない」って思うと、ちょっと安心します。私の不安は、身の丈に合わないことをしようとしたり自信がなくなったりすると起こるので、「どうあがいても、この私だぞ」って。
――本書に収録されている1年分の日記を読み返してみてどうでしたか。
ちょうど過渡期の1年でもあったんですよ。作家として独立して丸1年が経って読者の方も増えてきて、いよいよ作家として本格的にやっていくぞというタイミングの1年。それまではチャレンジャーとして書くことができたのが、「作家」として見られることになって“作家らしさ”みたいなこととどう向き合えばいいんだろうと葛藤していた日々でした。こんなにも揺らいでいる日記ってなかなか書けないんじゃないかな。でも、孤独なときや、うまくいっていないときほど日記っていいものだと思うので、そういう意味では日記を書くにふさわしい1年だったなとも思います。
私は自分を調律する感覚で日記と向き合っているんですよね。日記って、基本的にうまくいったときに書くものじゃなくて、うまくいっていないときに書いたり読み返したりして自分を整えるものだと思うんです。
生活のかけらをもとに、おもしろい作品を
――帯にもなっている「おもしろいから書くのではない、書いているからどんどんおもしろいことが増える」という言葉が印象的でした。過去のインタビューでも書けば書くほど生活がおもしろくなるといったことをよく語られています。いつごろから、そう感じ始めたんでしょう?
もう書き始めたときから。10代でブログを始めて、書くネタを探さなくちゃいけない、もうネタ切れだという感覚ってなかったんです。むしろ、書いていくとおもしろいことがどんどん増えていって、限られた時間の中でどれを優先して今日は書こうかと悩んでいたくらい。そもそも日々の生活の出来事を「ネタ」と捉えることは好きじゃなくて、「ネタを見つけてやるぞ!」というきもちは全くありません。ただ、より多くのものごとに対して私は「よっ!」「おっ!」って言いたいだけ。そうやって、いろんなことに対して「いいぞ、いいぞ」って思っているのがすごく好きなんです。
――歌舞伎の大向こうみたいな。きっと、くどうさんの「おもしろい」の感度がいいんでしょうね。
ちょろいんだと思います。しかも常に自分もまわりの人たちもおもしろいから、書くことがなくなるってことはないんです。でも、おもしろいことばっかりなのも疲れますよ。もう慣れているから大丈夫ですけど。
――わりと小さいころから、何ごともおもしろがる性分だったんですか。
いや、高校生ぐらいのときは他人の悪口を探すことに精いっぱい。頑張ってヘアケアしているクラスのかわいい女の子たちに対して、教室の端っこから「そうめんみたいな髪にして何が楽しいんだかね」みたいに、他人のキューティクルに文句をつけることに命を注いでいるような子でした。自分に自信がなさすぎて、まわりを自分より下だと思っていないと不安でしょうがなかった。
――それが変わったのは、どうしてですか。
大学生ぐらいに、私と同じようにたくさん書いて、書くことが楽しいっていう同世代と出会ったからです。書く力を他人に対する皮肉や揶揄ばかりに使っていたことが、めっちゃダサいと思った。もっと私は自分の人生に集中しなきゃいけなかったのに、他人の足を引っ張ることばかり考えていたなと反省しました。でも、そうやって他人をひがんだり、ねたましく思ったりした時代の私が救われていたのが「書く」ことだったんですよね。「他の人にはここまで書けないだろう」と、書き続けてきました。
――「他の人にはここまで書けないだろう」とは?
高校2年生のときに受賞した岩手日報随筆賞の審査員の方に、「本当に文章がうまい人は何も起きていなくても文章力だけで書ける人」というようなことを言われて、すごい衝撃を受けたんです。それまではどこかネタを探すようなきもちで書いていたんですが、エピソード勝負じゃないところでいかに書けるかで勝負したいと、思うようになりました。
私はとにかく「ふつう」すぎたんです。取り立てて不幸でもユニークな育ちでもなくて、県内の進学校に進んだものの成績はひどい有り様で。すごく恵まれているわけでもなく、かといって自分よりも大変な環境の人たちのことも知っているから不幸ぶることもできない。自分の人生がとりとめがなさすぎたんですよね。でも、文章力でなら勝てることがあるかもしれない。そんな思いもあって日記を書いていました。そうやって書いて世に出すという訓練をし続けてきたらからこそ、「日記用の私」ができてきたし、おもしろいことを見つけるのが得意になっていったんです。
――過去の「ひがみれいん」も自分であり、いまの「くどうれいん」をつくってくれたんですね。
あのとき、私にキューティクルがあったならば、文章は必要なかったんだと思います!
――今後はどんなことを書いていきたいですか。
私は小説や絵本などの創作作品のほかに、エッセイなどで自分の生活を書くことも仕事にしています。そうすると、「私生活を書くこと=赤裸々」というイメージで、書き手が本心やヒリヒリした感情を差し出していると思っている方が多いように感じます。でも、うまい文章って、必ずしも自分の身を切って赤裸々に書く必要はないんですよ。「自分のことをさらけ出して勇気がありますね」って言われるたびに、「そうじゃない、私は書く訓練をしてきて編集したものを出しているのに……」と思ってしまいます。そういう目線に対して、エピソードをさらけ出すことが全てではないということを言い続けたい。書き続けていれば、本当のことを書きながらも書きすぎないようにできるんだよ、と。
私の人生はコンテンツでも他者の感動のための商品でもなくて、私のもの。そこをうまく守りつつ適切な距離感を取りながら、おもしろい作品にしていくことを試行錯誤しながらやっていきたいです。