音楽プロデューサーとしてレコードやCDの制作に50年余り携わってきた。手がけたミュージシャンとの出会いや制作にまつわるこぼれ話を「新しい音楽の黎明(れいめい)期における現場からの報告」として、初の著書にまとめた。
1969年にレコード会社の東芝音楽工業(当時)に入社。忌野清志郎、財津和夫、小田和正……そうそうたるミュージシャンを駆け出しの頃から担当、世に送り出した。
「チューリップ」の代表曲「心の旅」(73年)のヒットに、宣伝担当として残業代から自腹で雇った近所の青年が大活躍。寺尾聰のアルバム「Reflections」(81年)でミリオンセラーを狙うため、社内を「その気」にさせた手練手管――。ヒットの裏にあった大胆な発想や行動力がつづられる。
実は演じ手からの転身だ。早稲田大の学生時代、バンド「ザ・リガニーズ」で同じ会社からレコードデビューしたのだ。忘れ得ぬ体験がある。「宣伝部の男性に『タレントさん』と呼ばれたので『アーティストです』と言ったら、ゲラゲラ笑われたんです」
当時、アーティストは外国人だけに使う言葉だった。国籍で呼び名が違うのはおかしい――。入社して作り手に回ると、「アーティストと呼べる人を見つけ、一緒に音楽をつくる」を信念とした。
ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンに弟子入りもした。「威張らずうそをつかず、自分が稼ぐより魅力的な音楽をつくりアーティストや周りを豊かにすること」がプロデューサーの役割と学んだ。
キャリアを積むにつれ音楽業界も変容していく。レコード会社が専属作詞家や作曲家を抱え歌手に曲を提供する仕組みが廃れ、自作自演のシンガー・ソングライターが台頭。シングル重視からアルバム重視へ。アーティストという言葉も普通に使われるように。
「音楽は一人でつくれるものではなく、時代と場がつくる」が持論だ。「ミュージシャンにプロデューサー、録音エンジニア……。価値観を共有する仲間が集まり場ができていく、ものづくりの現場を書きたかったのです」(文・写真 星野学)=朝日新聞2024年10月19日掲載