人生を左右する「運」
――この短篇集『富士山』について、「些細なことで運命が変わってしまう。これは、絶望であるかもしれないが、希望でもあるだろう。」と著者メッセージを寄せています。着想のきっかけは?
はじめからこのテーマにしようと思ったわけではなく、書いていくうちに見えてきました。僕はロスジェネ世代なので、人生上手くいってない人は努力が足りない、といった自己責任論はすごく嫌なんですよ。最近は、「親ガチャ」だとか成育環境の差について随分指摘されるようになってきましたが、僕は歳をとればとるほど「運」の要素も大きいと感じるようになったんです。
秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大(2022年に死刑執行)の手記『解+』(批評社)を読んだとき、本当にちょっとした何かが彼の人生にあれば、全然違った結末があったのではないかと感じたんです。僕らは大きな犯罪に直面すると、制度的な問題や教育的な問題、大きなことを考えがち。もちろんそれも大事なことですが、犯罪者を自分の周りにいるような人間の一人として捉える視点も必要だと思いました。
――この短篇集の中の「鏡と自画像」という作品はまさにそれをテーマとしていますね。「なぜ凶悪犯罪を踏みとどまれたのか」という視点で主人公の不幸な生い立ちやその中の一瞬の煌めきが綴られます。これは平野さんが『死刑について』(岩波書店)で書かれた死刑廃止論にもつながる物語ですね。
やっぱり死刑の議論に関わってきたことは大きい。死刑を存置すべきという人たちの理由の一つに「犯罪の抑止になるから」という抑止論があります。でも実際は無期懲役と比べて死刑の犯罪抑止効果は必ずしも高くないというデータがあります。じゃあどうすれば、と考えたとき、「なぜ犯罪を犯すのか」ではなく、「なぜ犯罪を犯さないのか」というアプローチもあります。20世紀後半の前衛文学にも、起きなかった出来事について考える作品がありましたが、その現代版を僕なりに考えてみたのが「鏡と自画像」です。
――主人公は無関係な人々を殺して死刑になろうとします。無差別殺人についても考えさせられる物語です。
「誰でもいいから人を殺したかった」という話は「死刑になりたかった」という理由とセットになっていることが多い。日本では「永山基準」といって3人以上殺せば死刑、という量刑相場が形成されています。だから相手を恨んでいるわけじゃなく、ただ人数として3人以上必要だからという理由で無差別殺人を起こす。この小説の主人公は、その「誰でもいい」という言葉に立ち止まり、「本当に誰でもいいのか」と考え始めます。抽象的な「誰でもいい」ということから、具体的な感触のある、自分にいた〈誰か〉を思い出すのです。
――現代は相手の実体を感じにくい時代でもありますよね。表題作「富士山」は、マッチングアプリで知り合った男・津山と旅行する加奈の物語です。加奈は津山が善人なのか、事なかれ主義者なのか、その人間性を掴もうとします。
僕は「何かの瞬間に人間性が出る」といった考えが好きではないんですよね。いい人がたまたまその時だけ機嫌が悪かったり、その逆もあると思うので、人間性は持続の中でしか判断しようがないと思うんです。
マッチングアプリのように人工的に出会って、何回かのデートで相手の人間性を見極めるというのは本当に難しい。しかし、結婚したいなら、本当に今後の人生を共にして良いのか見極めないといけない。リモートワークでも同じことが言えると思います。雑談もしないし、ちょっとした仕草を目にすることもない。コスパ、タイパを考えてすべてのコミュニケーションを合理化していくのは、会社という持続を前提としている集団では、やはり支障が出るんじゃないかな。
父となり、死の意味が変わった
――「息吹」について伺います。息子の悠馬と妻の絵美と暮らす中年男性・息吹が主人公。偶然入ったマクドナルドで耳にした話題から、大腸内視鏡検査を受け、ごく初期の大腸がん細胞を摘出し、助かります。が、徐々に、自分は本当にがんを早期発見できた自分なのか疑い始めます。この小説を読んで、検査を受けようと強く思いました。
読んだ人はみんなそう言います。内視鏡検査は僕の実体験がもとになっているので、切実に響くのかもしれませんね。加工肉が大腸がんリスクを高めるというくだりがあるのですが、うちでもあまり食べなくなりました。
――息吹がどれが本当の自分かわからなくなるほど思い詰めるのは、悠馬をのこして死ねないという想いがあるからですよね。平野さんご自身もお子さんがいらっしゃって、お父様を早くに病気で亡くされています。父となった今、病気や老いをどう感じていますか。
自分が死ぬことに関して、考え方が変わりましたね。昔は自分のことしか考えませんでしたが、今は、死んだら家族の生活はどうなるのかということが気になります。死後に作品が読まれる、ということに関しても、昔は純粋に芸術的な観点からそのことの意味を考えていましたが、今は、子どもが成人するまで十分な印税を受け取れるだろうかとか考えたりします。彼らが成人すればまた変わってくるのでしょうが。
――パラレルワールドに憑りつかれた息吹に対し、東日本大震災で父を亡くした絵美は猛反発します。なぜこの小説に震災を登場させたのですか。
パラレルワールドという発想は、震災以降、困難になったのではと考えていました。パラレルワールドは「第2次世界大戦で、もしドイツと日本が勝っていたら?」など、出来事が起こったか/起こらなかったかを想定としますよね。でも、東日本大震災はそれが「いつ起こったか」によって、助かった人、助からなかった人が秒単位で変わる。パラレルワールドの存在を認めたら、生きている人、死んでいる人の構成が違う世界が無限にあることになります。主人公の妻もそういう考えです。しかし、コロナはパラレルワールド的な想像力をまた強く刺激しました。
この短篇を読んだ方から「震災に言及してもらえてよかった」と言われました。その方は、ご家族を震災で亡くされたそうです。10年以上経った今も、震災のトラウマを引きずって生きている人がたくさんいる。もちろん僕にとっても大きな出来事で、現代小説を書く上で、なかったことにはできないこと。これからも考え続けていきます。
――「手先が器用」は一転して、しみじみと優しいお話。子どもへのささやかな誉め言葉の効用が書かれていると感じましたが、平野さんご自身はお子さんに褒めるとき、どんなことに気を付けていますか。
子どもが小さい時は、オーバーリアクションでわかりやすく褒めていたのですが、成長するにつれ、あまり大げさである必要はなくなりました。今は、友達にいいことがあった時のような感じで「へえ、すごいね」と反応するようにしています。「手先が器用」は、それまで犯罪とか死とか重たい話が続くので、最後の作品の前に、ブリッジとして入れたので、一息ついてもらえたら嬉しいです。
小説外の人物の感情をすくい取る実験
――大トリを務める「ストレス・リレー」が、この短篇集で目指す世界を一番端的に表している短編だと感じました。ささいなストレスが人から人へと伝染していきますが、最後にルーシーという女性がストレスのバトンを誰にも渡さず、平穏が訪れます。なぜ、ルーシーはリレーを終わらせることができたのでしょうか。
コロナがヒントになりました。あのとき、感染した人を隔離して感染力が収まるまで待つ方法がとられましたよね。また、感染した人と接触した人数が多いほど、感染者数も増えました。ストレスも同じです。ルーシーは京都に住む留学生で、もともとコミュニケーションの頻度が高くない。ストレスを受けた後、鴨川の上流のほうでのんびり一人で過ごすんです。そうやって受けたストレスを自分の中で収めることができた。鴨川の北のほうは観光客も少なくて、本当に心を落ち着けるのにいい場所なんですよ。
じつは「ストレス・リレー」はこの本の中で一番実験的なことをやってみたんです。それは〈小説外〉の人物の感情をすくいとること。小説内の喜怒哀楽って、基本的には主要登場人物との関係性の中でしか語られない。主役と脇役との。
だけど、それってウソだと思うんですよ。本当は主要登場人物に満たない人間との、つまり小説の外部の人間との関係の中で揺れる感情があるはずです。だけど、小説や舞台、映画が登場人物間の感情しか描いてこなかったから、僕たちは相手がムッとしているときに、自分に原因があるのではと考えてしまう。本当は、たまたま寄った店の店員に嫌な態度をとられたからかもしれないのに。
以前、ドラクロワという実在の人物の日記に基づいて小説を書いたことがありました(『葬送』)。そのときも、小説のラストに差し掛かっても実際の日記には毎日のように新しい客が訪ねてきて、ドラマのうねりとは関係ないやりとりをしていくんです。でも、それを全部書くと収拾がつかないから、ないことにする。この小説の〈嘘〉が気になっていたんです。だから今回は、継続的な関係のない人たちの間での感情の揺れ動きを書いてみました。
――これまで、平野さんはご自身の作品を「第3期」「第4期」と体系立てて発表してきました。この短篇集の位置づけは。
前作の『本心』が第4期という位置づけだったのですが、会う人会う人に、「これで第4期も終わりましたね」と言われて、言われてみれば、自分でもこのシリーズも一区切りついたかな、と感じて次のシリーズに進もうと思いました。第5期の長編を書く前に、一度短編で思考と手法を探ろうと書いたのが今作です。
――第5期はどんなシリーズになりそうですか。
これまで唱えてきた「分人主義」は継続的な関係の中で、人格が分化していくという発想でしたが、第5期は、そこにもう少し運や偶然性、刹那的な出来事の影響が入ってくるのではと思います。