小説家で詩人の川上未映子さんが新たに翻訳を手がけた「絵本ピーターラビット」シリーズ(ビアトリクス・ポター作・絵、早川書房)が今年3月に完結したことにちなんで、シリーズを手がけたブックデザイナーの名久井直子さんと川上さんとの公開対談が、19日に東京都内で開かれた。
新訳版は全23巻。2022年3月から順次刊行された。「リズミカルできれがある川上さんの訳は、ピーターラビットのシリーズにぴったりだった」。対談の進行役をつとめた担当編集者の窪木竜也さんは振り返った。
「世界中で愛されている絵本だから、やっぱり緊張した」と川上さん。「登場人物の動き、会話の応酬の独特のリズム、ノリみたいなものを、なるべく日本語に置いていきたいなと思いました」
川上さんの訳について、名久井さんが「私が好きなのは」と挙げたのは「赤りすナトキンのおはなし」(第2巻)の冒頭部分。
「これはおはなし、しっぽのおはなし、しっぽのもちぬし、赤りすの」ではじまる一節だ。tale(話)とtail(しっぽ)、ふたつのテイルが呼応する原文を、「し」の音が耳にのこる日本語にリズムよく置き換えた。「少々強引になっても、韻をなんとか日本語で再現したいなと思って」と川上さん。
「でも難しいと思ったのはね、翻訳家の人たちはいろいろな小説家の作品を訳すけど、自分の文体はそんなにたくさんはないでしょう。原文はみんな違うから、おのずと訳の文章も変わってくるっていうんだけど、それが信じられない」
川上さんのこの問いに、名久井さんは「デザイナーの立場からいうと、手がける本が全部同じデザインにならないのは本そのものが違うからっていうのと似てるかも。だからその話は、ちょっとシンパシー感じる」と応じた。
「2ひきのわるいねずみのおはなし」(第5巻)を訳す際には、埋もれていた自身の記憶にふれるような瞬間があったと川上さんは語った。
皿に載ったハムが登場する場面。ハムといっても土でできたつくりもので、お皿とくっついて離れない。そのハムを見た瞬間、「私、この絵をよく知ってる」という感覚にとらわれたという。
「学童とか図書館とかの本で見たんだと思う。覚えていない記憶のなかにあった絵と出会い直して、そのときの感覚がばっとよみがえった」
手触りや視覚的なイメージといった感覚が、いかに私たちの奥底に眠っているかということを強く感じたという。
「そういう言語化できない感覚を、絵本は運べる。そう考えると、すごい仕事に関わったなって思います」(柏崎歓)=朝日新聞2024年10月30日掲載