人生に懐疑的でありながら希望は捨てていない加藤シゲアキの分身 「ミアキス・シンフォニー」(第23回)

ひとの声が聴きたい、という加藤シゲアキの願いが見えるような小説だ。
26日に発売された新刊『ミアキス・シンフォニー』(マガジンハウス)は、加藤の第7長篇にあたる作品である。複数のエピソードで構成される連作形式を取っている。
第6長篇『なれのはて』(講談社)が2023年に刊行されたとき、私は意外に感じた。『ミアキス・シンフォニー』が『anan』に2018年から不定期連載され、2022年に完結していたことを知っていたからだ。2022年に刊行された加藤のファンブック『1と0と加藤シゲアキ』(KADOKAWA)で全作解題を担当した際、私は連載分をすべて読んでいた。そこに書いた作品評を引用しておきたい。
――多くの登場人物がエピソードによってまず紹介され、全員が揃った時点で各自が発する音が交響曲のようにまとまった調べを奏でることになる。複雑に配置された人間関係の全体像が次第に見えていくという楽しみがあり、物語の後半ではある登場人物から一つの問いが投げかけられる。先行きの見えない物語運びなど、過去作よりも熟成感が格段に増しており、楽しく読むことができる。
この評を読んでいただければわかるように、私は『ミアキス・シンフォニー』をその時点における加藤の最高傑作だと考えていた。だから『なれのはて』が先に刊行されたことに驚いたし、連載終了した『ミアキス・シンフォニー』がなかなか単行本化されないのを訝(いぶか)っていた。おそらく著者の満足がいくまで改稿を重ねたのだろう。加藤は以前にも、「週刊SPA!」で連載した「チュベローズで待ってる」に後半部を書き足し、倍の分量がある長篇(『チュベローズで待ってる』AGE22、AGE33、2017年、扶桑社)として刊行したことがある。人物造形を練り込むためにエピソードを重ねていくような書き方をしている作家なので、連載では見えてこない部分があるのかもしれない。
『ミアキス・シンフォニー』は6章で構成されており、それぞれのエピソードは時間軸の上で少し前後しながら並行して展開するので、つながりはない。ただし、登場人物や舞台となる場所などに共通項があるため、読み進めていくと個々の情報がつながって世界観が醸成されていく。夜空に星座を見出すような読み方が可能になる小説だ。だからここでは、各話のつながりについては書かないことにする。読者が自分で発見すべきだからだ。
第1話「わたしのともだち」では、あやという大学生が視点人物になる。あやには、みちるという幼いときからずっと一緒の友達がいる。みちるの存在が本作ならではの特殊なものなのだが、それも書かないことにする。その特殊性について、大学の同級生である西倉まりなという女性が、かなり無神経な形で踏み込んできてあやの心をかき乱すのである。
これは書いてもいいことだと思うが、西倉まりなが『ミアキス・シンフォニー』の中心にいる登場人物だ。まりなはそれぞれのエピソードで脇役として登場するが、彼女がいることによって登場人物同士のつながりがどのようなものかということが意識される。テスターのような存在なのだ。最終話の「愛のようなもの」で初めてまりなは物語の主役になるが、自分自身が不在であるということによって周囲の人間模様を浮かび上がらせるという、極めてテスターらしい形でそれを務める。
「わたしのともだち」にはもうひとり、彰人という青年が登場する。彰人はまりなの知人なのだが、初対面のときに彼女から「ピンノ」呼ばわりをされた。ピンノとはあさりの殻を開けると入っていることがある小さな蟹で、大きな存在に寄生するという存在のあやふやさを指してそう言ったのだ。まりなに言われて激怒したものの、彰人は自分が大物俳優であるおばの波定テツ子に依存して生きていることを自覚している。そのことを自己嫌悪しているが、テツ子の傘の下からは出られないのだ。ピンノである。
続く第2話の「断れない案件」は、八方美人的に女性にいい顔をして思慕を寄せられてしまう弟・柏原涼太と、彼を疎ましく思いつつ、つい言うことを聞いてしまう兄・忠の関係が核となって物語が始まる。ある事態が起きて、もうひとりが舞台の中央に呼び出される。青井義満というその男性は、涼太の元恋人であった富士田優と現在交際している。「わたしのともだち」が誰かへの依存を描いているとすれば、「断れない案件」は一方向な思いの物語だ。誰かが誰かに思いを寄せるとき、回路がつながるように即座に双方向になるわけではない。自分の思いが果たして届いているのか、相手の思いとそれは釣り合っているのか、他人の心が読めるわけではない以上、決して知ることはできない。思いを一方的に投げかけ続けることにより、結果として初めてつながりが得られるだけなのだ。義満がこんな風に考える場面で物語は終わる。
――どれだけ苦しくても、この瞬間がいつかの私を救う祈りになるかもしれない。そう信じて私は貼り付いたページをめくるため、ゆっくりとノートに指をかけた。
第3話「シンボル」でも一方向で伝えることの難しい思いが描かれるが、ここでは時間の積み重ねが重要になる。思いがすれ違ったまま、長い年月が過ぎてしまう関係もあるのである。加藤はミステリ―的な展開を武器にする書き手で、ここでもひとりの男性が長い間胸に抱えていた思いとはどういうものだったか、ということが読者を牽引する謎のフックになっている。その謎を象徴的に示しているものが題名の「シンボル」なので、暗号ミステリーのようでもある。
第4話「誰かの景色」も歳月が過ぎる間にすれ違ってしまったふたりの思いを描いた内容で、安易なハッピーエンドは準備されていないのだろうと予測させる苦みが物語に必要な陰影を与えている。ある登場人物の「滑稽だけど、悪くはなかった」という感想で話は締め括られる。何も変わらないが、少しだけ救いが訪れるのである。このエピソードでいいのは、主要な登場人物ふたりの間にはさまって、ある傍観者の視点が描かれることだ。その人物はふたりをずっと見てきたのである。見るだけの存在、見るだけで人生が終始している存在。それこそ滑稽であり悲劇の人生とも言えるが、作者は決して突き放さず、この人物にも寄り添って「わたしは、わたしの景色のなかで幸せになる」と書く。
次の「砂の城」は6話の中で最も短く、第2話で登場した忠が中心になる。人が誰かと積み上げていく時間とその記憶が各話では重要な意味を持つ。そのことが特に強調される一篇で、自分の中にある時間のつながりを守るために忠が意外な選択をすることが暗示される結末が印象深い。ここまでで登場人物の人間関係はほぼ明らかになっており、最終話の「愛のようなもの」へとなだれこんでいく。
これだけ多くの登場人物を書いて、彼らに語らせようとする、またその声を聞こうとする加藤の姿勢は素晴らしいものだ。登場人物たちは完全に独立しているわけではなく、それぞれの中に加藤自身が反映されている一面がある。少し人生に懐疑的で、しかし希望を捨てているわけではない加藤シゲアキの分身だ。だが、それでいいのである。分身たちにそれぞれの声を発させることで小説を作ろうとする試みは見事に成功している。物語世界は十分な声で充満している。
加藤はデビューからしばらく自分自身のことを書いていた。自分の知りうる世界を書いているうちに、物語に加藤シゲアキが反映されていたのだ。初期作のあと、まったく自分とは違う人々を書くことに専念し、登場人物を造形する技巧を獲得した。第42回吉川英治文学新人賞を受賞した2020年の『オルタネート』(新潮社)は最初の成果だろう。執筆順では本作の後になる『なれのはて』では自分以外の誰かを、個人史を遡って人物像を作るという形で書き、結果として水上勉を思わせる硬質な物語を完成させた。『ミアキス・シンフォニー』もそうした試みに連なる作品である。
ここに響いている声は加藤シゲアキのものではなく、加藤シゲアキのものでもある。それらのつらなりが確固としたイメージを浮かび上がらせる。誰かの心に入りこみ、強く揺さぶる。