
ISBN: 9784163919911
発売⽇: 2025/06/20
サイズ: 13.8×19.5cm/296p
「サイレントシンガー」 [著]小川洋子
小説は夕方五時に町に流れる「家路」から始まる。「帰ろう」と、少女の頃のリリカの歌声が聞こえてくる。だが、「この歌をうたっているのが誰なのか、知っている者はいない。知ろうとする者さえいない」とさりげなく書かれた言葉は、すでにリリカの物語を暗示している。
沈黙とお喋(しゃべ)りは相容(い)れない。では、歌は? 沈黙と歌はどうか。
少し変わった集団があった。彼らは内気のゆえに人との関わりを避け、沈黙を基本とする生活を営んでいた。そこで外部とのやりとりをする雑用係をしている祖母のもとで、リリカは育った。彼女は沈黙の中にいるわけではないが、世間のお喋りの中にいるわけでもない。リリカは歌う。「沈黙と歌。矛盾するはずの二つをリリカは苦もなく一続きにすることができた。」そして彼女は、「無言でいるもののためでなければ、歌うことができない」のだった。
物語は静かに進んでいくが、語られるエピソードは多彩である。説明抜きでいくつか書き出してみよう。行方不明になった男の子のために、おばあさんが人形を何体も作って森の斜面に置いたこと。歌の仕事が来るようになり、「歌うアシカショー」でアシカの身振りに合わせて舞台の陰で歌ったこと。鮮烈なのは、角がからまってとれなくなったまま脱走した二頭の羊。次に見つけたときには、一頭は頭だけになってもう一頭と絡み合っていた。
こうしたイメージが響きあい、濃密な詩的空間を張り出している。その中に浸り込む。そこにこの小説を読む最大の愉悦がある。
後半、有料道路の料金係との関係が物語の中心を成すようになる。しかし彼は沈黙の世界の外の人である。他方、リリカは沈黙の世界の境目にいる。このことが、小説の終わりへとつながる。
読後、沈黙から踏み出て沈黙へと帰っていくリリカの歌声が、読者の耳に残されるだろう。
◇
おがわ・ようこ 1962年生まれ。作家。『妊娠カレンダー』で芥川賞。他に『博士の愛した数式』『ミーナの行進』など。