大人という殻への違和感 衝動に任せ、自分を恥じずに 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評26年9月〉
みんな子どもとして生まれてくる。自分の気持ちのまま泣き、笑い、怒る。日々新しいものを発見し、驚き、そのたびに生まれ変わる。だがやがて大人になり、仕事をし、家庭を持ち、だんだん役割の殻が厚くなってくる。はじめは自分で選んだはずなのに、違和感が募っていく。こんなはずじゃなかった。それでももう、どうしていいかわからない。
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ミランダ・ジュライ『はいつくばって』(岸本佐知子訳、新潮社)の主人公は、まるでジュライのような中年女性だ。さまざまなジャンルで芸術的な活動を行い、ちょっとした有名人である彼女は、自分の書いた一行が広告に使われ、二万ドルを手に入れる。自分へのご褒美として旅に出よう。彼女は車に乗り込み、ロサンゼルスからニューヨークまで大陸横断を目論(もくろ)む。
だが彼女は、ロサンゼルスから目と鼻の先のモンロビアで高速を降り、そのままモーテルに泊まり続ける。それだけではない。二万ドルまるまる遣って、泊まっている部屋を、可愛いもの趣味全開に改装する。
なぜ今するのか。彼女は思う。「でもそういう方向に考えるのはよくない。そういう考え方が、これまで女たちが何事かをなし遂げることをさんざん妨げてきたのだ。『なぜ』に答えなんてなくたっていい」。そして彼女は衝動に身を任せる。
その答えは徐々に明らかになる。著名な音楽プロデューサーで、趣味の良さに自負がある夫ハリスは、妻のセンスを認めない。だから家で主人公が選んだものは、スプーン十本しかない。それでも夫は表面的には、妻に共感するふりをする。そのことは妻も知っていて、そのせいで二人の関係は堅苦しくなる。
さらに別の理由もある。主人公は、この町のガソリンスタンドで偶然出会ったダンサー、デイヴィーと恋に落ちたのだ。いつもスマホをチェックしている今時の若者の彼を、主人公は好きになるはずがなかった。けれども彼と散歩し、改装した部屋で逢瀬(おうせ)を重ねているうちに、彼女は彼に決定的にのめり込む。だが家庭のある二人はキスすらしない。
ならばこれは悲恋に終わるしかないのか。そうではない。デイヴィーは主人公に圧倒的なダンスを見せつけることで、今この瞬間に自分らしくいる方法を教える。「ダンスは言う、悦(よろこ)びは今だけだ、と。だからわたしは今以外のすべてを手放した」。すべてが終わった後、もう一度デイヴィーに会いたい主人公は心のままに、地面に倒れ這(は)っていく動画をこのモーテルで撮り、ウェブにアップする。しかしこれに反応したのは彼ではなく、夫のハリスだった。
ハリスは「僕の趣味ではなかった」と主人公に言う。この正直さが二人を大きく変え、やがて彼らは自分の殻を破ることになる。こうして、あれほど主人公を悩ませた堅苦しさは跡形もなく消え去る。
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市街地ギャオ「蠱王(むしおう)」(WEB文芸誌「文学茶釜」8月19日)で心の殻は、硬い殻で覆われたオオクワガタとして現れる。無力感に苛(さいな)まれている主人公の男は、日々仕事で疲れ切るばかりだ。友人たちは次々と結婚し子どもを持つのに、自分だけが取り残されていく。彼の心の支えは、自宅の単身者向けマンションで大量に飼育しているオオクワガタだ。虫たちに対してだけは、彼は絶対的な権力者として振る舞える。
どうしてこうなったのか。大学時代付き合っていた彼女に下宿を破壊され暴力を振るわれた彼は、他人に対して心を閉ざしてしまったのだ。だが彼の王国は無惨にも崩壊する。蓋(ふた)を開けていないはずのケースから虫たちが逃げ出す。「逃亡は、最も男の尊厳に傷をつける謀反だった」。一人で自足した世界など存続できない。虫たちのこの行為は、主人公への愛ある教えなのではないか。
黒川創『若冲、川を下る』(新潮社)で扱われるのは、京都を生きた「畸人(きじん)」たちである。「子どものままいられる者たちの自由」を求めた彼らは、この歴史ある街を彩ってきた。まずは主人公が追い求める江戸時代の画家、若冲だ。だがむしろ印象的なのは、小説について主人公に語る富岡多惠子である。「小説を書くときは、書き手が照れてたら、あかんの。作家は臆面なく書かないと。そうやないと、読者のほうが照れてしまうでしょう」。作品の中で再び生を取り戻した彼女は、自分自身であることを恥じるな、と語る。過去から響く声は、読者をも勇気づける。=朝日新聞2026年9月25日掲載