魂の死と再生 限りない孤独が繫ぐ世界 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評26年8月〉
突然、愛の関係が終わる。それまで、もちろん側(そば)にいてくれると思っていた大切な人が姿を消してしまう。今、重みや手触りを持って迫る孤独と向き合いながら、自分が抑えきれぬほどの力で、微(かす)かな温(ぬく)もりを求めていることを感じる。
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マリア・ジュディッテ・デ・カルヴァーリョの『こんなにも多くの人が、マリアナ』(木下眞穂訳、集英社)の表題作で、マリアナは夫を奪われる。まさに目の前で、夫のアントニオがエストレラに言うのだ。「そのほくろ、かわいらしいな。風に吹かれる花のようだ」。
この比喩表現を聞いたとき、マリアナは今後この二人が、さらに自分がどうなっていくかを正確に予感してしまう。もちろん運命に逆らうこともできただろう。けれども、マリアナはただ流れに任せる。なぜなら彼女は、人の心を所有することなどできない、と考えていたからだ。
それでは、今彼女のお腹(なか)の中にいる子どもはどうか。たった一人で残されたマリアナは、フェルナンドの誕生を心待ちにしていた。夫はいなくなる。けれども親子の関係は消えない。しかしこれも、マリアナの思うとおりにはいかない。ふいに街角に現れたエストレラに気を取られたマリアナは、車にはねられてフェルナンドを失ってしまう。
あとでその時期、エストレラは国外にいたと知っても、子どもを奪ったのは彼女だ、とマリアナは確信し続ける。もしそうなら、フェルナンドはどこへ行ったのか。しばらく経って、映画館でマリアナは、偶然エストレラについての噂(うわさ)を聞く。なんと、彼女の生んだ息子はフェルナンドという名前なのだ。
目を閉じればエストレラの顔が浮かぶようになったマリアナは、睡眠薬に頼るようになる。まだ三十六歳なのにがっくりと老け込み、自分には死が忍び寄っていると感じる。もはや彼女の人生には何もないのか。だが、「猫を抱いた老女は、私と目が合うと必ず微笑(ほほえ)んでくれる」。そうした瞬間にだけは、マリアナは自分の陥った苦境を忘れられる。
印象的な題名は、かつてマリアナの父が語った言葉、人は「たくさんの人が周りにいても、ひとりだ」から来ている。だから知識としては、マリアナはそのことを知っていた。けれども、ひりつくような実感として孤独を知った彼女は、他人のほんの僅(わず)かな優しさを鋭く感じ取れるようになる。そしてもしかしたら、この魂の死の向こうには、新たな再生が待っているのかもしれない。
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シリン・ネザマフィ「記憶の折り目に」(「文学界」9月号)の主人公はテヘランに住む女性だ。米軍の空爆下に生きる彼女の思い出の場所は、次々と焼き尽くされていく。「学生の時よく待ち合わせをしていたあの喫茶店も建物ごと燃え尽きて、若いころの懐かしい思い出はみんな、外国の炎で灰となった。近所のパン屋さんまで」。インターネットは切断され、外国の情報が入ってこなくなる。いや、そもそも停電でスマートフォンの充電ができず、親しい人たちとの連絡さえ取れない。
次は自分が今いる場所が破壊されるのではないか。そうした孤独と恐怖の中、それでも彼女はアメリカのすべてを否定できない。子どものころからアメリカ映画を見て育ち、マドンナもテイラー・スウィフトも大好きだった。なのにどうしてアメリカ人たちは我々を殺そうとするのか。心に浮かぶのは、断食月の屋台から漂う香ばしい香り、そして、お正月を一緒に過ごした家族の笑顔だ。あの日々を取り戻したい。そして再び世界と繫(つな)がりたい。こうした作品が日本語で書かれたことの意義は大きい。文学は想像力を通して、遠く離れた人々の想(おも)いを結ぶ。
松尾スズキの短篇(たんぺん)「それぞれの言い分」(『海辺の独裁者』所収、朝日新聞出版)の語り手の一人は、家に侵入してきた何者かに殺された妻だ。彼女の遺体を見て数日して逃げ出した夫は、漫画喫茶などを転々として現実から逃げている。妻は思う。夫はすべてのことを他人のせいにしている。会社をクビになったのも、マンション経営の投資で財産を失ったのも、バイクに乗って事故を起こしたのも、自分が酒浸りだったせいではないか。常に酒の世界にいる夫も、話を聞いてもらえない妻も限りなく孤独だ。そして読者は思う。これは自分のことではないか。漫画喫茶で無料で食べられるソフトクリームで夫が命を繫ぐ、というユーモアがほろ苦い。(翻訳家・米文学者)=朝日新聞2026年8月28日掲載