物語の持つ力 いないはずの、あなたに出会う 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評26年10月〉
ふと、いるはずのない存在を感じることがある。ピンチのときに突然、心配いらない、という声が聞こえてくる。振り向いても誰もいない。だが結局、その声が正しかったとわかる。あるいはある日、もう会えないはずの人に街で出会う。よく見れば他人の空似だ。しかし今なぜここなのか。わからないまま妙に納得している。そして現代の小説にも、時々そんな不可思議なものが顔を出す。
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アミタヴ・ゴーシュ『銃ノ島』(岩堀兼一郎訳、KADOKAWA)の舞台は、インドとバングラデシュの国境地帯に広がるシュンドルボンの密林だ。この地帯にある古い寺院の話を、主人公のディーンは聞きつける。ようやくたどり着いてみると、その壁には、ボンドゥキ・ショダコルと呼ばれる銃商人の数奇な旅が刻み込まれていた。ベンガル語地域に伝わる彼の物語は、実は歴史的な事実に基づいているのではないか。そうした直感をもとに、ディーンは銃商人同様、遠くヴェネツィアまで乗り込む。
彼がヴェネツィアで目にしたのは、様々な職業に従事している多くのベンガル人たちだった。スマホを片手に言語や国家の壁を次々と乗り越え、独自の知恵で移動していく彼らは、西洋中心のものとは全く違う、もう一つのグローバリゼーションを体現している。それだけではない。シュンドルボンの密林もヴェネツィアも、同じ気候変動によって存続の危機に直面している。こうした移民や自然によるグローバリゼーションは、西洋の人々をひどく怖がらせる。なぜなら、自分たちは安泰で苦しむのは遠くの人々、という構図が脆(もろ)くも崩れ去ってしまうからだ。
ヴェネツィアでディーンを導くのは、高名な学者でもあるチンタだ。合理主義者であるディーンに、彼女は物語の持つ力を説く。「物語をとおしてのみ、私たちの存在の一番奥にある神秘にアクセスできる。そこでは、本当に大切なものは、眼(め)では確かめられない」。なぜチンタはそうした信念を持っているのか。幼くして亡くなった娘、ルチアの声を時に聞いているからだ。そしてディーンは徐々に、固い思い込みの外側にあるものを見ることを学んでいく。さらに彼は、やがてピヤという女性への愛にも心を開けるようになる。
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奥泉光『木蓮記(もくれんき)』(新潮社)の主人公は、幼いころ神隠しに遭った画家の松枝獏園(ばくえん)だ。勝小吉『夢酔独言』を彷彿(ほうふつ)とさせる、生き生きとした語りで綴(つづ)られた本作は、幕末から明治にかけて生きた獏園の自伝という体裁を取っている。江戸の押上村にいた彼は二ケ月後、筑波山で発見される。そしてそれがきっかけで、諸々の不思議を研究していた松枝梁園(りょうえん)の養子になる。なんと梁園は、死んで異界に消えた息子を現世に呼び戻す舟を作る研究までしていた。
それだけではない。梁園の養女の豊根は、西洋の学問に明るいばかりか、未来を見通す力まで備えている。そして彼女が突然、異界に姿を消したあとも、時折そこに彼女がいる、という感覚を獏園は抱く。「おれ自身も豊根が間近に在ると感じることはあり、しかしそれは近しい死者に対して誰もが抱くものだらう」。死者もまた生者を思い、時に戻ってくる。上田秋成『雨月物語』のようなテーマを導入することで、奥泉光は現代文学を拡張している。
ピンク地底人3号「ひかるとあかり」(「文芸」冬号)であかりは、向かいのホームで手話をする男子高校生を見て、ひかるかもしれない、と思う。最後に彼女がひかるに会ったのは三十年前だ。だからどう考えても計算は合わない。けれども、そこでひかると再会した、という感覚は確かだ。当時、高校生だったあかりの旅館に、耳が不自由な親子が泊まりに来る。おそらくパチンコ三昧(ざんまい)の母親は、ろくに息子のひかるの面倒も見ていない様子で、一日中出掛けている。いても立ってもいられなくなったあかりは彼を助けに行く。
だが、助けられたのはあかりの方だった。ほんの子どもであるひかるは丁寧に彼女に手話を教える。あかりは思う。「どうして私の名前が相手に届くだけでこんなにも嬉(うれ)しいのか」。数日して、ひかると母親は急に姿を消す。けれどもひかるはあかりを助け続ける。旅館を継いだあかりは、嫌なことがあると手話にして、思う存分ぶちまける。形のない思いが、手話で形を得る。そのことで彼女は救われる。だからこそ、三十年ぶりに他人としてひかるが姿を現しても、あかりはそれを受け入れられる。=朝日新聞2026年10月31日掲載