北村みなみ「終末パートナー」 安楽死がある社会だったら、どう生きる?(第16回)
そうだ、お墓買おう。
最近ふと思った。何か具体的に差し迫った事情があるわけではないので、この原稿が公開される頃、わたしがこの世にいなくてもそれは単なる偶然で、虫の知らせとかじゃないです。
それなりにいい年だし、「マイ墓」でも持っとくか、もし買ったらこれが今年でいちばん高い買い物だな、大人って感じ……その程度の動機に過ぎないのだけれど、自分の骨の行き場がある、と考えただけで、ちょっと心の据わりがよくなる気がする。ただ、問題はその手前で、人はいつどうやって死ぬか、選べない。生まれてきた時と同じように。人間に唯一保障された「平等」ってそれだけだろう。わたしもあした死ぬかもしれないし、10年後かもしれない。
10年以上前に「エンディングノート」なるものを買って記入したこともある。特に遺言などはなく、突然くたばったら各種のパスワード関係で面倒をかけそうだなと思って書き出したらあまりに多くて途中でやめてしまった。銀行、SNS、ネットショッピング……ただの一般市民なのに、どんだけの機密に囲まれて生きているのか? とデジタル社会の蔦に絡め取られている自分にうんざりした。ノートは捨ててはいないので、魔窟のような机のどこかに埋もれているだろう。
臨終に際し、めっちゃ痛いとか孤独に息絶えて人さまの手を煩わせたりとかは勘弁してほしいよな、と思うけれど、こればっかりは自分の意思ではどうにもできない。
でも、もし「最期の瞬間」を選べたら?
北村みなみの「終末パートナー」(上下巻・KADOKAWA)は、安楽死制度が導入された「if」の社会と人々を丁寧に描く。
主人公の小桜要(かなめ)は、安楽死を請け負う会社でプランナーとして働いている。当然、安楽死は誰にでもひらかれた扉ではなく、治る見込みのない疾患、絶え難い苦痛から逃れるための最終手段だ。熟慮の果てに安楽死を選んだ顧客が、満たされてあの世に旅立つことができるよう、彼女は心を尽くす。
そして、そんな要の夫・纏(てん)もまた安楽死を待つひとりだった。
「やっとできるんだよ安楽死!」
笑顔で報告する纏に、要は「ぜーったいいい最期にしようね!」と応える。
でも、当然それは要の100%の本心じゃない。要も纏も、それぞれに秘密と嘘を抱えている。
大切な人の望みなら叶えてあげたい。苦しむ姿なんて見たくない。でも……。
揺れる要の心情と、安楽死をめぐるさまざまな人生が交錯する。
離婚した妻の安楽死を阻止しようとする男、認知症の父の安楽死を望む娘、自らの死をコンテンツにしようともくろむ動画配信者、制度と職業倫理との狭間で苦悩する医師。
「あの時安楽死が 俺に生きる力をくれたんだよ」
「安楽死さえなければ 『死のう』なんて思わず ただ必死で生きてたのかも」
どちらも、間違っていない。本書は安楽死を否定も肯定もせず、ただ「安楽死がある社会」という現実の中で、各々がどんな選択をするのかを見つめている。
「大事な人に一日でも長く生きてほしい それは誰もが持つあたりまえの願いだ」
「決して誰にも責められるものじゃない」
あたりまえの願いも、纏の望みも否定したくない要が、どんな選択をするのか。纏はそれにどう応えるのか。
「メメント・モリ(死を思って生きよ)」という言葉がある。「いかにして死を遠ざけるか」というモチベーションでこんにちまで発展してきた文明を享受するわたしたちにそれはとても難しい。死は必然のはずなのに、どこかで可能性として捉えている。そしてフィクションから得る死は、時に死を弄んでいるような罪悪感をもたらす。でもそうじゃない、と本書を読んで思う。この物語を通じて考えた死は、絵空事じゃない。
これを書いている今も、自分の身体は確実に死に近づいている。でも、編集者に送信したらどこかにごはんを食べに行こう、なんて考えてもいる。生きるつもりでいる。死を思いながら生を肯定するために、時々小説なんか書いてあがいてみる。