鴻巣友季子の文学潮流(第42回) アトウッド、アン・カーソン ノーベル文学賞に値するカナダの双璧詩人
さて、今年もノーベル文学賞をはじめとした、ブッカー賞、全米図書賞、フランスの四大文学賞などの発表が目白押しだ。
ノーベル文学賞の発表は、今年は10月8日木曜日。主催組織のスキャンダルによる再編が行われた2018年以来、律儀に男女交互の受賞パターンが続いている。昨年はハンガリーのクラスナホルカイ・ラースローだったところから、女性作家の受賞と噂されるのは無理からぬところ。
私としてはこの数年と同様、スペイン語圏、インドあたりの女性作家を応援したい。スペイン語圏ではメキシコのクリスティーナ・リベラ・ガルサ、インドではアルンダティ・ロイなどが気になるが、応援の理由はここに書くと長くなるので、これから掲載される朝日新聞の対談を読んでください。
さて、ふと気がつけば、英語圏作家がややご無沙汰なのである。2013年のアリス・マンロー受賞から、16年のボブ・ディラン、17年のカズオ・イシグロ、20年のルイーズ・グリュック、21年のアブドゥルラザク・グルナとなって、10年足らずで5人にぽんぽんと授賞していたのに、20年代になってけっこう静かだ。
別にわるいことではない。英米の政治的な迷走で英語の覇権に変化が見られるなどと言っても、英語の力はいまだ強い。この文学賞がアフリカ生まれ、あるいは黒人作家に授与されたことは、120年のなかで驚くべきことに7回しかないが、そのうち5人が英語作家なのだ。非英語作家は『異邦人』の作者アルベール・カミュ(フランス語)と、エジプトのナギフ・マフフーズ(アラビア語)だけ。黒人作家への授賞でいえば、ウォーレ・ショインカ、トニ・モリスン、アブドゥルラザク・グルナの3人だけで、全員が英語で創作している。
とはいえ、世界の英語人口の4分の3が第2言語以降の話者で、ネイティヴ話者は英語話者の4分の1しかいないというのが現状。英語の「中心」は拡散し、多層化していると言える。そんな現状も踏まえたうえで、今年は英語作家も応援したいと思う。
以下はすべて私的な推しなのでご了承いただきたい。英語圏と言うとオーストラリアも気になるが、アメリカの51番目の州にするだの、オンタリオ湖をアメリカ湖に変えるだのと、隣の大国の大統領に言われているカナダに注目したい。第2次大戦後、カナダ文学というものを確立した一人が、アリス・マンローであり、もう一人がマーガレット・アトウッドだ。
私としてはアトウッドは推さざるを得ない。何十年と有力候補と囁かれているなか、どうして例年以上に推したくなるかというと、この数年の出版の豊饒さ、多才さである。
自伝寄りの短編集Old Babes in the Woodに加え、Book of Lives: A Memories of Sortsという回想録や、そして論集も上梓しているが、近年注目したいのは、アトウッドの詩人としての側面なのだ。2020年には新作の詩集Dearly(失われていく言葉、存在の空白、自然に対する洞察に満ちた詩集)を刊行、その後、詩の集大成となるコレクションPaper Boat: New and Selected Poems, 1961-2023も編まれた。
アトウッドはThe Handmaid's Tale(邦訳:『侍女の物語』斉藤英治訳、早川書房)というディストピア小説によって国際的名声を確立したが、最初に出版された作品は詩だった。21歳になる1961年のデビュー作は、Double Persephone と題された7編から成る自費出版の詩集。自ら活字を組み、表紙も制作した手作りの本で、わずか220部が世に出た。この小さな詩集が、その年のE・J・プラット・メダルを受賞している。
その3年後の1964年には、のちの代表的詩集となる The Circle Game(邦訳:『サークル・ゲーム』出口菜摘訳、彩流社)の初版を刊行。1966年には一般向けの版が出版され、同年、本作によってカナダ総督文学賞を受賞した。20代で詩人としての評価を確立し、その後、小説、批評、エッセイへと活動の場を広げることになるが、アトウッドは一貫して詩人なのである。
最新の詩集Dearlyには、森林の再生や鳥類の生息環境維持にも関わってきたアトウッドらしい、人間以外の生命へのまなざしが満ちている。彼女のこうしたエコロジカルな想像力と読者に与えるインスピレーションも評価されるべきだと私は思う。あの『侍女の物語』にしても、社会が負のスパイラルに陥った根幹には環境破壊と気候変動があるのだ。
Dearlyに収録されたOh Childrenは、「おお、子供たちよ、あなたたちは鳥のいない世界で大きくなるの?」と問いかける。コオロギもシオンもハマグリも存在しない世界で、と。その未来に残っているのは、波と、嵐と、サイクロンと、石と、埃……。有機的な生命が消えていく世界がイメージされる。最終行では「おお、子供たちよ、あなたがたはそもそも大きくなれるのだろうか?」という問いかけがあり、環境汚染のために短命にして死んでしまう子供たちと、いつまでも死ねない老人たちを描いた多和田葉子の『献灯使』とも響きあうものを感じさせる。
予言者などと言われるアトウッドの慧眼は、もちろん若い頃からのものだ。例えば、The Landlady(女大家)という詩(The Animals in That Country収録、1968年)の出だしと、最終スタンザを引用しよう。
ここは女大家の巣窟
彼女は
がさつな声そのもの
階下の部屋をうろつきまわる
<中略>
女大家はそこに立ちふさがる 耳障りな事実として
わたしの行く手をふさぐ
いつも変わらず
分厚く切った現実として
ベーコンの塊みたいにどっしりと
なんだか、だみ声の合衆国大統領がどっしり立ちはだかる図が見えるようだが、1960年代当時、カナダは国家としての同一性意識が高まった時期でもあり、女大家とは高圧的に干渉してくる隣人アメリカを暗示しているのではないか?とも解釈された。宗主国イギリスから独立したはいいが、油断すると、アメリカの文化的植民地になってしまうという不安があったのだ。それはいま、はるかに露骨な恐れに変わっているだろう。
ノーベル文学賞発表前に、カナダでアトウッドとともによく名前が挙がるのが、詩人で古典学者のアン・カーソンだ。日本でも代表作の『赤の自伝』(書肆侃侃房)が小磯洋光により邦訳されている。
カーソンは2020年にグリュックと受賞を競ったなどと、まことしやかに言われているが、今年も有力視されているようだ。ステシコロスのゲリュオン退治伝説をBLロードノベルに語りなおした『赤の自伝』を読めばわかるとおり、当代きってのfujoshi作家(腐女子はすでにアルファベッドで定着している)であり、それは欧米でも認知されている。
一方、カーソンの詩もエコクリティシズムの方面からよく研究されている。「ソフォクレスのアンティゴネーより『人間への頌歌』」という詩の出だしを引用しよう。
おそろしく静かな客はあまた存在するが
人間ほどおそろしく静かな客はいない
その足音は海の上を危険なほど柔らかにゆきすぎていく
大理石の冬に
硬く青々とした波を踏み越えて この客は火曜日ごとに
もはや驚くことを忘れた大地を
馬と粉砕機ですり潰し、
鳥たちの頬を砕き、森でヘッドライトの罠にはめる
潮を帯びた銀色たちがその網にころがりこむ
まさにそのために編んだ網のなかに
このおそろしく静かな客は
動物たちを、山々を、技術でもって
破滅に向かわせる
軛でもって、牡牛を屈服させ、馬を跪かせる
ソフォクレスの原詩は、「世にあまたの驚異あれど、人間ほど驚くべきものはない」と始まるが、カーソンはそれを「静かな客」に転換する。人間は地球の主人ではなく、偶さかにしていっときのまろうどであり、なのに涼しい顔で黙々と破壊を進めていると。完新世と農耕の出会いを豊かな調和ではなく、偶発的で壮大な幻想として捉えている。人間の自然支配(とその傲慢さが破滅をもたらす危険)をうたったソフォクレスの原詩への批評的翻案詩にして、美しいエコポエティクスとして評価されるべきだろう。
英語はいまの世界的な翻訳文学ブームのハブ空港的な存在になっているのも事実であり、ノーベル文学賞というのはつまるところ世界翻訳文学大賞でもある。そして翻訳というのはつねに原作に対して遅れて来るものなのだから、「世界文学」なるものは、遅れてきた者たちが集まってつくる誤差のシステムということになる。
それが最もよくわかる祭典が、このノーベル文学賞なのだ。各国で文学が享受され、評価され、その評判が外国にも届き、何重もの選抜過程を経て翻訳出版され、異文化のなかで鑑賞され、理解され、高い評価が寄せられ、それがなにがしかの国際文学賞に結実するには、何十年という歳月がかかる。
今年も「遅れてきた文学」の祭典をみんなで楽しみましょう。