障害、国籍、文化…異なるものを受け入れ、共にある世界へ 紀伊國屋書店員さんおすすめの本
記事:じんぶん堂企画室
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つるつる。ざらざら。ぺらぺら。きらきら。
幼い子どもと歩いていると、モノクロだった景色に生命が宿り、言葉にできない色や匂い、感触で満たされていく。そして気がつく。いつから私はこの豊潤な世界を無機質に感じ、ただ足早に歩いてきたのだろう。効率的かつ完璧であることが優先される平べったい社会。排除と分断の進む生きづらい世界。わかりやすいことが奨励されるこの世の中において、言葉にできない感情を互いに尊重し、共に生きていくことについて深く考えるきっかけとなった3冊の本をご紹介したい。
「存在しないもの」とされることがどういうことか想像できるだろうか。これまで日本社会において、障害者は健常者から切り離され、見えない存在とされてきた。『車椅子の横に立つ人-障害から見つめる「生きにくさ」-』(青土社)は、障害を抱えながらも差別と闘ってきた障害者たちの姿を詳らかにし、言葉にできないものをないがしろにする、不寛容な社会を問い返す一冊だ。街中に障害者の姿を見かけても、人々が凍り付くという時代ではなくなった。それは、見えない場所に押し込められてきた障害者たちが「普通に生きたい」と声をあげて闘ってきた努力の賜物だ。
しかし、残念ながら、現代社会も障害者と健常者が共に生きる社会だといえる状況にはない。私も「車椅子の横に立つ人」というタイトルを見て、反射的に家族や介助者の姿が目に浮かんだ一員だ。隣にいるのは友人や恋人かもしれないのに。そういったステレオタイプは、多様性を削ぎ落とし言葉を奪う。生命の尊厳を傷つけられ苦しんでいる人々の傍らで、そのことに気づきすらせずにのうのうと暮らしていたという事実を突きつけられ、愕然とした。
では、障害者と健常者はどうすれば共に生きることができるのだろう。
両者の隔たりを暗澹たる気持ちで眺めていたその時出会ったのが、『ただ、そこにいる人たち―小松理虔さん「表現未満、」の旅』(現代書館)だった。本書は、障害者福祉の「部外者」である著者が、認定NPO法人クリエイティブサポートレッツの運営する障害者福祉施設を訪れ、「友だち」として利用者を捉えるようになった軌跡を綴ったものである。
レッツは「表現未満、」を標榜している。だれもがもっている自分を表す方法や本人が大切にしていることを、とるに足らないことと一方的に判断しないで、この行為こそが文化創造の軸である考え方で、「その人」の存在を、丸ごと認めていく、という思いが込められている。誰もが生まれながらに持っていたであろう心の豊かさは、教育過程の中で「他人の迷惑にならないように」「成果が上がるように」と制約を受け、必要以上に身をひそめていってしまうように思えてならない。
そんな中、存在自体を認め受け入れるレッツには、非常に豊かな時間が流れている。注目すべきは社会に開かれているという点だ。「部外者」としてレッツを訪れ、「友だち」ともいえる関係性を築き、笑い合い、ちょっかいを出し合い、課題があれば「ふまじめ」な関心や興味で気軽に動き、よいしょ、と乗り越えていく著者と利用者たち。きっと、共に生きるとはこういうことをいうのだろう。
『車椅子の横に立つ人』の著者も『ただ、そこにいる人たち』の著者も、「誰もが広い意味で障害のようなものを持っている」と指摘する。障害者と健常者。ほとんど疑わずに頭の中にあった2つの言葉が融けてゆく。私たちは誰もが何かしら不得意なものを持っており、それは弱点ではなく普通のことなのだから、互いに認め補い合うことで、共に在る優しい社会をつくることができるのではないだろうか。
さて、これまで障害者という視座から見てきたが、視点を変えて、情報化社会において「共に在ること」について考えていきたい。
情報化の進んだ現代社会における他者とのつながりを考えたのが、『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮社)だ。日本人の母と台湾とベトナムのハーフである七ヶ国語を扱う父をもち、日本生まれで国籍はフランス、東京のフランス人学校、パリ、アメリカで学生生活を送ったという著者は、言語やコンピュータ、表現を軸として、他者との在り方を探求する。
情報化社会においては、わかりあえるもの同士がつながり、わかりあえないものに対する隔たりが強まることを認識しつつも、「わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け入れる」こと、そして両者をつなぐ「その結び目から新たな意味と価値が湧き出してくる」ことを念頭に紡ぎ出される著者の世界は、明るくやわらかい光に満ちている。
おずおずとその世界に足を踏み入れた私は、いつしか著者の織り成す繊細かつ丁寧な言葉たちに優しく包まれ、心地よい旋律に身を委ねていた。複数の言語や文化を生きてきた著者は、アイデンティティを問われることも多く、だからこそ生まれた優しさなのかもしれない。生粋の日本人である私が生きてきた世界とは全く異なる世界、と呟きかけたが、ふと立ち止まる。周囲は多様な価値観であふれ、異なる感覚をもった人々に囲まれている。子どもと歩いた街が色彩豊かに迫ってきたのも、子どもという「他者」との結び目から生まれた新たな世界なのだろう。
「他者」を受け入れず、「自分」だけで過ごすことは時に楽で安全だ。しかし、そうやって過ごしていくうちに、いつしか周りの景色はモノクロになり、豊かさを失ってしまう気がする。キャンバスに載せる色が名前の知らない色であっても、自分が思い描いていた色でなかったとしても、描き方が自分と異なっていたとしても、否定するのではなく、「そんな色もあるんだ」「面白い描き方だね」と、まるごと受け入れてみることで、新しい世界が拓けるのではないだろうか。
知らない世界へ足を踏み入れるには勇気がいる。しかし、少しずつ「異なるもの」を受け入れることで、色鮮やかで豊かな、そして他者と共に在る居心地の良い世界へ歩み出せるかもしれない。