アメリカ市民社会を分断する8つの「断層線」――宗教は「アメリカの十字架」か?
記事:明石書店
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アメリカでは約4人に1人がキリスト教福音派の信徒である(ピュー研究所)。福音派とは、精神的な生まれ変わりを経て聖書の言葉を自らの魂の救いの唯一の拠り所としてまじめに生活を営むキリスト教徒を指す。
レーガン政権が誕生した1980年の大統領選挙以来、保守的な福音派は共和党候補を、リベラルな非福音派は民主党候補を支持するようになった。ここでいう「保守」とは聖書を文字通り理解する人々を指し、「リベラル」とは聖書を解釈して言葉の背後にある意味を理解する人々を指す。
アメリカには、市民宗教と呼ばれる公共的な宗教が存在する。これは、愛国心を発揚させることで市民に国民としての自覚を与え、大統領や政権に正統性を与えて国民の統合機能を果たすことで知られる。ロバート・D・パットナムとデヴィッド・キャンベルが言うように、アメリカにとってキリスト教は恩寵(おんちょう)、つまり恩恵という側面を備えている。
それに対して筆者は、キリスト教はアメリカにとって十字架、つまり苦難でもあると主張する。社会を分断する契機を胚胎しているからだ。実際、アメリカ社会は歴史的に8つの断層線により分断されてきた。
従来、キリスト教会は各教派によって異なる神学思想を受け容れた信徒によって構成されてきたが、20世紀末には、イデオロギーによって線引きされた集団が集う場所を表すようになる。その結果生じた断層線は、政党支持にのみ見られる現象ではない。政治一般、市民の経済生活、人種、ジェンダー、環境、教育など生活の隅々にまで影響を及ぼし、市民社会を分断しているのである。
第1の断層線は植民地時代以来の経済的問題である。17世紀、迫害から逃れて新天地アメリカを目指したイギリスの清教徒たちが携えてきたのはカルヴァン主義の「天職」という理念だった。彼らは神の道具として日常生活を合理化し、世俗内で禁欲的に天職としての職業に励み富を蓄積していく。
だが、彼らを営利活動へと駆り立てた「資本主義の精神」はやがて抜け落ち、営利活動自体が自己目的化する。南北戦争後、アメリカは世界屈指の経済大国になるが、所得格差により、富める者と貧しい者の経済的分断が拡大していく。格差は現在も存在し、それに対する反発がトランプ政権誕生の要因となったことは周知の通りである(第2章)。
第2の断層線は貧困に対する信徒の態度に見られる。全人口の6割(64%)を占めるキリスト教徒のおよそ2人に1人(47%)は終末論を信じる(ピュー研究所)。キリストの再臨が差し迫っていると信じる信徒は保守的信仰をもち、貧困などの社会問題は再臨後に神によって解決されると信じ、再臨に備えて信仰を深めていく。個人の罪を認め悔い改めなければ永遠の魂が得られないからだ。
他方、人間の手で社会を改善して千年王国を建設しなければ再臨はないと信じる信徒は、進歩主義的でリベラルな信仰をもつ。彼らは社会に埋め込まれた罪の存在を認め、社会の改革を置いて貧困の撲滅はないと考える(第3章)。
アメリカの教会は、白人教会と黒人教会に分断されている。さらに白人教会は主流派(非福音派)教会と福音派教会に分かれている。20世紀中葉の公民権運動のさなか、リベラルな北部の白人非福音派は運動に参加したが、南部の白人福音派は現状維持を望み黒人の地位向上には断固反対した。第3の断層線は人種間の諸問題に見られる(第4章)。
第4の断層線は、いわゆる文化戦争の火種ともなっている性的多様性の問題である。30歳未満の若者でLGBTQ+であると考える人の割合は、他の世代より多い。また、同性婚では、保守的な白人福音派は反対の立場を採り、リベラルな白人非福音派は賛成の立場を採る(第5章)。
第5の断層線は地球温暖化などの気候変動への対応に表れている。白人福音派は、神が地球を支配し制御するために人類を創造したと捉える。また、化石燃料などによる地球温暖化の人為起源説には懐疑的、または科学的根拠が不十分だと捉え、地球温暖化対策よりも経済成長を優先させる傾向がある。対して、リベラルな非福音派は、神が人類を創造したのは、人類に地球を管理させ、ケアさせるためであると捉え、地球温暖化対策を支持する傾向がある(第6章)。
第6の断層線は、教育現場に影を落としている。
かつて、プロテスタントとカトリックの間に断層線があった。プロテスタントが多数派のアメリカに、カトリック移民が急増した19世紀中葉、公立学校でどの聖書を採用するかという問題をめぐって暴動にまで発展した(第7章)。
20世紀中葉になると、保守的福音派とリベラルな非福音派との間に断層線が生じ、保守的白人福音派を動員して信仰と価値観を政治や教育に反映させるべく政治的活動を推進する宗教右派が、公立学校での聖書輪読や祈りの復活を求めたり、教育委員会での教科書選定や教員の委嘱を有利に進めたりする闘争を展開した(第8章)。
第7の断層線は、大統領政治と政党政治に存在する。1980年の大統領選挙以来、共和党は信心深い人々の支持政党であり、民主党はリベラルな信仰をもつか信仰をもたない人々、あるいは黒人など人種的少数派の支持政党という構図になっている。
従って、大統領選挙では、候補者の信仰の内容や社会・倫理問題をめぐる対立した立場に有権者の目が注がれ、集計結果は、保守的な信心深い有権者の多いレッドステート(赤い州)かリベラルで宗教に無関心な有権者の多いブルーステート(青い州)に線引きされたチャートで示される(第9章)。
第8の断層線は、保守的な白人福音派の7割以上はイスラエルを支持する傾向があり、民主党支持者でリベラルな信仰をもつプロテスタントや教会無所属者などはパレスチナを支持する傾向がある。トランプ大統領が2017年にエルサレムをイスラエルの首都と認め大使館を当地へ移すと述べたときに福音派は拍手喝采を送った。信仰や政党支持によってイスラエルとパレスチナ支持が分かれるのだ。(第10章)。
このように、本書では8つの断層線、すなわち、アメリカが背負うべき十字架とは何かを明らかにし、さらに十字架による苦難を軽減ないし回避する糸口を探っていく。最終章では、トランプ大統領の出現により白人福音派がアイデンティティの危機に直面し、増加する教会離れや福音派を名乗らない信徒が増えている現状を伝える。そのうえで、保守的な福音派は多様性を認めるべきことを主張し、フランスの思想家アレクシ・ドゥ・トクヴィルの言葉を引用して、政治との決別の必要性を訴える。
本書は、2024年の大統領選挙の8月中旬までの趨勢を辿っているが、その後トランプ次期大統領は、どのようにして返り咲きを果たしたのであろうか。
今回の選挙の争点は経済だった。この2年間、有権者は、経済に不満を抱き、不法移民の増加に憤慨してきた。失業率は低く、賃金は上昇し、インフレ率は低下していたのに、物価は高く、手頃な価格の住宅不足に不満を抱き続けてきた。
皮肉にも、FRBが実施した金利の引き上げは、住宅や自動車ローンなどの借入金を押し上げた。利下げを開始したが、国民がそれを実感する前に選挙日を迎え、怒りの矛先はバイデン政権へと向かった(全国公共ラジオ)。
白人投票者の白人有権者全体に占める割合は71%で、2020年のそれを4ポイント上回った。また、ヒスパニックの46%の票を獲得した。白人の宗教票の内訳は、福音派の82%、非福音派の58%、カトリックの61%だった(ピュー研究所)。変化を求めた証左ともいえる。
では、トランプは、白人福音派から、どのようにして、その82%の票を獲得したのか。2020年の選挙までは、「繁栄の福音」を説くポーラ・ホワイトといった、メガチャーチの著名なテレビ伝道師たちの信任を得て選挙戦を戦った。
2024年は全く異なった。教会員に対面で説教ができる地方の教会の牧師が集う数々の大会に出向いて講演をして回ったのだ。アイオワ州での大会では、ある牧師が、大統領選挙を「悪魔的な勢力との霊的な戦い」に例え、当選の暁には「この国で悪を助長してきたすべての人々に対し報復が行われるだろう」と、トランプ流の「大嘘つき」のレトリックで演説を締めくくった。
つまり、豪語するトランプ主義が無名の牧師にまで浸透していたのだ。実際、2016年のアイオワ州での得票率は白人福音派票の22%に留まったが、今回は51%と、飛躍的に伸びた(NBCニュース)。トランプは8年間で共和党だけでなく、地方の教会までも自分色に染めていたのだ。
中国の習近平やロシアのプーチンのみならず世界が注目する第二次トランプ政権は1月20日の就任式を迎えようとしている。経済や環境問題、貧困や人種問題、性的多様性や教育の問題、国民統合やイスラエルの問題をめぐって国内での8つの断層線を抱えての二期目の船出である。
トランプは対外的には保護主義的傾向を強める一方、デンマーク領グリーンランドを獲得するのに軍事力の行使をも辞さないとする構えに隠れた覇権主義が見え隠れする。日本や国際社会は今後、MAGAの実現に必要なアメリカ主導の世界秩序の構築をめざすトランプのアメリカと伍していかねばならない。こうしたアメリカの動向を占ううえで、本書が一本の補助線となることを期待する。