【対談】藤原さと×朱喜哲 中編 「倫理」「正義」は学校でどう学ぶ?
記事:平凡社
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藤原さと(以下、藤原):特に公教育の初等中等教育で気をつけなければならないのは、「ヒドゥン・カリキュラム」の存在です。表向きのカリキュラムでは、社会的に「正しい」とされる知識を学んでいるけれど、潜在的なカリキュラムでは、「先生の言うことに素直に従う子がよい」あるいは「点数の低い子どもは価値が低い」というような言説が暗黙のうちに学習されてしまう状況があちこちで起きています。そうした構造が、子どもたちの生きづらさを生んでいるように感じます。
こうしたヒドゥン・カリキュラムを回避する良質な実践の具体例として『こどもと民主主義をつくる』に挙げたのが、長野県の伊那小学校の実践です。伊那小では、牛やチャボといった自然に根差したものが学習材として用いられています。教師が価値観や規範を押しつけようとしても、チャボはそのままの姿でいますよね。伊那小では、子どもたちは、そうしたごまかしのきかない生き物と対峙(たいじ)する中で価値判断の基盤を形成していきます。こうした判断力は、将来の健全な批判的思考力を支えるでしょう。教師も子どもから学ぶという姿勢で教育をします。
伊那小学校の実践を見ていると、実は、大人よりも子どものほうが適切な判断力を持っているのではないかと感じることがあります。むしろ、大人のほうがさまざまな言説や価値観を身にまとい、判断が歪(ゆが)んでいる可能性もある。その結果、必ずしも正しいとは限らない大人の側が、より健全な判断をしている可能性のある子どもを上から押さえつけるということもあるのではないでしょうか。
朱喜哲(以下、朱):面白いですね。私は『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』という本の中で、日本の道徳教育の学習指導要領を分析したのですが、日本の道徳教育では「正義」や倫理の概念が、総じて個人の「内面」の問題とされてしまっていることを指摘しました。
初等中等教育の道徳の指導要領では、いじめのような、本来であれば公的な機関である学校が責任を持つべきことについて、「心が弱いからいじめをする」という個人の資質の話にしてしまいますよね。日本の公教育にドグマとして深く入り込んでいますし、じつは同じことが企業にも言えると思います。私はビジネスの現場にも関わっているので、企業から「社員の倫理観を鍛えてほしい」と依頼を受けることがあります。そのたびに、「個人の、特に大人の内心としての『倫理観』を企業が鍛えることは不可能ですし、そもそもやるべきことでもありません」と答えているんですね。せいぜい可能なのは、社員自身が気づいたヒヤリハットや課題を適切に表現するための言葉遣いを学ぶことのお手伝いぐらいです。
藤原:おっしゃるとおりだと思います。日本の道徳教育の課題は、「正しいふるまい」「正しい気持ち」「正しい考え方」といった規範が、極めて権威の強い文書である学習指導要領に明示されていることです。それにより、子どもたちはその規範を理解し、習得できているかどうかで、評価が行われてしまいます。
たとえば、現行の学習指導要領は、小学校3~4年生で「友達と互いに理解し、信頼し、助け合うこと」「誰に対しても分け隔てをせず、公正、公平な態度で接すること」「我が国や郷土の伝統と文化を大切にし、国や郷土を愛する心を持つこと」「父母、祖父母を敬愛し、家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくること」といったものが「内容項目の指導の観点」として書かれています。でも、各項目に割くことのできる授業時間は、割り算をすると、一般に2時間程度に限られてしまいます。もちろん、学習指導要領には「考え、議論する道徳」という言葉が入っています。しかし、多くの学校現場では時間のなさもあって、結果的に「規範を教えこむ」という形になってしまっています。
しかし、そもそも「公正」「公平」という概念は、相当難解なものではないでしょうか? また、個人的には、「父母、祖父母を敬愛し、家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくること」などと言われても、それが成り立たない家庭が現実には少なくないのではないかと感じます。こうした規範を「正しいもの」として子どもに示し、さらにそれを評価の対象とすることには強い疑問を抱かざるを得ません。企業の「社員の倫理観を鍛えてほしい」という依頼は、こうした学校教育のあり方と無縁でないように思います。
朱:大阪大学との共同調査で、ビジネスパーソンに「倫理って何だと思いますか?」を聞いたことがあります。以下の2つの選択肢を用意して、どちらに近いのかを問うという設問です。
1. 絶対に守るべき義務
2. できればやった方がいいこと(努力目標)
1000人規模の対象者に同じ設問を問いましたが、ほぼ半々に割れました。
つまり、日本で「倫理」と言ったとき、人によって捉え方が大きく分かれます。一方はduty(義務)として捉える人、もう一方は「努力目標としてできたらやればいい」という考える人。同じ言葉でも、人によっては全然違う意味を持っている。西洋社会では「倫理」は基本的に「義務」、自分たちの指針を決め、行動を縛るものとして理解します。しかし日本では例えば「エシカル消費」というようなカタカナ語になって、「できたらやる」といったような、ふわっとしたものにさせるわけです。
リベラリズムの基本である「寛容(トレランス)」という価値をみても、日本語だとどうしても優しさや思いやりのニュアンスが前面に出てしまいます。しかし本来のトレランスは他者の宗教的信条や思想・信念に対して、公権力や社会が干渉せず、無理に変えようとしない態度です。宗教戦争や権力の干渉といった歴史の反省として生まれた価値であるから、公権力が個人の信条や思想に干渉しようとする場合に、それを押し返すことが、寛容の内実です。
同じように、「reasonable accommodation」も、日本語では単に「合理的配慮」と訳されますが、本来はaccommodation ability(適応能力)、つまり視力の調節のような身体的・認知的な調整を指しています。それなのに、「配慮」という「思いやり」の話にしてしまう。だから、「なぜ自分がやってあげなければいけないんだ」「配慮したのにお礼がない」といった心の問題にすり替えられてしまうのです。公共的な義務や責任といった観点ではなく、内面の話に置き換えてしまうことは、大人社会における責任のあり方とも大いに関係しているのではないかと考えています。
藤原:なるほど。私は大学のゼミでは西洋の政治哲学を学んだので、「倫理」や「正義」というと、ふわっとしたものというよりは、私自身の生きる方向性を指し示す羅針盤のようなイメージでいます。「人権」や「寛容」は守られなければならないものであり、みんなで守っていく仕組みを考え、つくっていくもの。しかし、日本の学校教育では、「人権」も「寛容」も「大人たち」が勝手に考える「お作法」になってしまって、問い直されないばかりか、個人がそれをできるかできないかでジャッジされ続けている。これでは、結果として、守られるべき人が守られません。
藤原:ただ日本の教育のルーツについて調べていくと、現代に至るまで私たちの思考やふるまいに大きな影響を与えている儒教や陰陽五行思想が、必ずしも悪いものではないことがわかってきました。実は西洋における「倫理」につながり、本来の意味での責任、つまり応答の力(Response-ability) を喚起するものとなる可能性も秘めているのではないかとすら思います。
陰陽五行では、私たちの世界はもともと「気」が充満した混沌とした世界であり、そこから私たちは切り出して(文節化して)、何かを物として捉えたり、言葉として運用していると考えるようです。宮沢賢治は『春と修羅』で、妹が亡くなったときのことを「感ずることのあまりに新鮮すぎるとき、それをがいねん化することは、きちがひにならないための生物体の一つの自衛作用だけれども」と表しましたが、言葉にならないものを理(ことわり)として引き出さないと生きていけない人間の性(さが)を私たちは持っている、そんな世界観です。
たとえば、先ほど触れた伊那小学校では、子どもは大人のように物事を言葉で切り分けず、文節化されていない世界をそのままに捉えていると考えています。そしてそんな子どもを教師は尊いと考えている。
そういったものと、西洋哲学に基づく教育方法をどういうふうに折り合わせて、よい教育の実践を考えていけるのかといったことに興味がありますね。前回のローティの話にもつながりますが、小学校の初等教育くらいまでは、子ども自身が自然や周囲の人との関係性を存分に感じ取り、つながりを作っていく学びを大切にし、中高生からは批判的思考力をしっかり付けていく西洋的な教育の方にシフトしていくというのも、一つの方法かもしれません。
朱:面白いですね。2025年以降の私たちの世界では、西洋社会がやっているから大事だ、みんながDEI(多様性・公平性・包括性)をやっているからやるべきだ、というような言い方はもう通用しません。例えば、ロシアは批判するのにイスラエルを批判しない、といったように、西洋的な普遍主義のある種の欺瞞(ぎまん)、つまりダブルスタンダードが明らかになっているとさえ言えるでしょう。こうした状況では、私たちは「普遍的価値」と言われたものの矛盾を目の当たりにすることになり、その理念の普遍性の根拠を問い直さざるを得ません。
つまり、普遍主義的ではない形でも、理念の理念たる所以(ゆえん)を説明していくことが必要です。藤原さんがご著書で示唆されたように、明治期・大正期を含めた草の根の民主主義では、土着的な言葉遣いが生きていました。西洋が正しいから受け入れるという形とは異なり、日本語の中で市民としての立場や社会の一員であることを表現する言葉を立ち上げていたわけです。日本語圏でもそれをどう実現するかは、私自身も引き受けるべき課題です。そこを紐解きながら、「どんな言葉だったら私たちの中で市民としての自覚を立ち現れさせられるのか」という問いを考えることは、日本語に内蔵された別の価値体系の言葉を紐解く試みであり、大切な営みだと思っています。
藤原:普遍的原理を主張するよりも、どこか動的で曖昧さを残した「混沌」のようなものを一つの拠り所としながら、会話を続け、道を見出していくことはあり得そうですね。
一方で、アメリカ発の学習方法には、概念をベースとした探究(concept-based inquiry) というものがあり、対話を促進するものとして注目しています。たとえば「花」という概念があったとき、その言葉を話している私は「今朝見た花」を目に思い浮かべているかもしれませんが、ほかのお友達は「すでに枯れた花」を想起しているかもしれません。だから、さまざまな「花」を話し合うことで、一人ひとりの多様な「花」という言葉を、「協働」で育てていくんです。「倫理」「公正」「正義」のような重要な概念を、私たちの言葉で立ち上げていけるといいですね。
現状の日本の学校教育においては、ある問いに対する答えが一つであると断定され、自由かつ深く考える機会が制限されているようにも思います。「私の花」と「あなたの花」は違っていていい。言葉の探究の志向性は共有しつつ、対話を通して、他者の言葉を寛容さをもって受けとめていけるとよいですね。
《後編へ続く》
構成=吉田真美(平凡社編集部)