ミシェル・フーコー生誕100年 千葉雅也が推薦する最初の一冊
記事:筑摩書房
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本書は、具体的だ。フーコーは社会を、権力をどう考えたのか? フーコー的に世の中を見るとはどういうことか。それが『監獄の誕生』を中心として丁寧に解説されている。フーコーに興味をもったとき、最初の一冊としてお勧めしたい。 ──千葉雅也さん推薦重田園江『ミシェル・フーコー』(ちくま新書)への推薦文
私は20年ほど前、自分が何ものになれるのか少しも分からない時期に『監獄の誕生』に出会った。難解さに幾度も立ち止まり、読了後も著者が何を言いたいのかよく分からなかったけれど、それでもこの本に魅了され、これを書いた哲学者に心を奪われた。人の一生が短く、また人生にとって決定的な時期はもっと短いことを考えると、この本が私の生涯で最も重要な著書であることは間違いない。そして緻密な脚本のホラー映画も顔負けの仕掛けが随所に施され、複雑怪奇な細部が合わさってできた寄木細工のようなこの本を読み解くことが、長い間私にとっての課題でありつづけている。
もちろん、一冊の本の魅力をすべて解き明かすことなどできない。ましてや『監獄の誕生』は私の想像力と思考の限界をはるかに超えた著書である。それでもやはり、この本の仕掛けを読み解き、そこでフーコーが何をねらいとしたかを理解すること、さらには私が説明できることを読者へと差し出すことは、この本との出会いから20年経った今では、どうしてもやっておかなければならないことのように感じている。
そしてそれは、研究者としてという限定付きのものではなく、この本を書いたフーコーが好きでたまらないからこそずっとこだわって、つき合って、考えてきたことを、ちょうど好きでたまらない子のことを考えたくないのに考えてしまう、恋の強制力のようなものに動かされてきた結果を、読者に示すことでもある。
常々私は「フーコーの専門家」「フーコー研究者」と言われることに気恥ずかしさを感じてきた。それというのも、フーコーについて一冊の本も書けないでいるだけでなく、というよりその理由なのだが、彼について知っていること、理解していることはほんのわずかで、分からないこと、理解できず説明もできず、まだまだ追いつくどころか触れることすらできていないと思うことの方がずっと多いからだ。フーコーがあまりにも遠く感じられる時には、まだまだ愛が足りないと自分を叱責するのだが、それでもときには「見えた」あるいは「近づいた」という手応えが得られる瞬間が訪れる。
フーコーはものごとの価値を変えようとした。それを著作を通じて、また行動と発言を通じて実践した。『監獄の誕生』はどのようなしかたで価値を変え、ものの見方を変えることを目指したのか。さらにはそれと前後して彼はどんな活動に携わり、また『監獄の誕生』以降そこから来たテーマをどう展開したのか。これらを今の私にできるかぎり示すことが、この本の主題であり目的でもある。
冒頭の引用で気分が悪くなった人も、フーコーへの愛を語る筆者の心情の吐露に引いてしまった人も、どうか気を取り直してこの本を読み進めてほしい。フーコーは近現代を深く、遠くまで見通し、字面の上では今の生活とは何の関係もない過去の話に終始するのに、それと同時にびっくりするほど身近な、至近距離の現在を目の前に突きつけてくる。しかもその歴史像に触れれば、見慣れたはずのものごとが、これまでとは全く違って見えはじめるのだ。
本書のはじめに書いたとおり、フーコーがねらっていたのは、彼の著書を読むことで読み手が以前とは違ったしかたで世界を眺めるようになることだった。だがその目的を果たすためには、読み手自身が感覚を鋭敏にし、想像力を働かせ、現実に迫りたいという欲求を持つことが必要である。もちろん彼は一種の触媒なのだから、読み手がそこから何を汲み取り、どんな刺激を受け、何を願うかはさまざまで、その意味でつねに読者に開かれている。
そうなると、本書のような「フーコーの著書についての本」はいったい何のためにあるのだろうか。考えようによっては、フーコーの偉大な作品に張りぼての屋上屋を架す試みのようでもあり、かなり恥ずかしい。だが一方で、読んでいるとつくづく思うのだが、フーコーの著書はどれも難解で、どこから取り付いたらいいのかきっかけをつかみにくい。
というのも「革新的な研究というのは、その研究を理解するより活用することで頭がいっぱいの追随者たちが考えるより、少しばかり年老いている」(カンギレム『生命の認識』注Ⅱ-43)からだ。年老いた研究は周到で複雑で細部への目配りを忘れず、決して単純な一般化の枠に無理矢理落とし込んで結論を出さない。つまりは老獪なのだ。だからこの本は、読書のためのきっかけ、形はちょっと変だが「フーコー読書案内」のつもりで書いた。こういうところから興味を持てたら、多少難しくて細部がよく分からなくてもフーコーを読む気になってくれるかもしれない。そういう意図でさまざまな角度から、『監獄の誕生』のおもしろさを広げ、つなげ、深める方法を考えた。
フーコーはつかまえるのが難しい。たとえるなら「龍」のような思想家だ。龍をつかまえるにはどうすればいいか。唐代の中国からの言い伝えによると、絵師が龍の絵を描く時は、筆先でかき回しては弱ってしまい、頭でこね回しても萎えてしまう。だからただ降りてくるのを待つのだそうだ。そして「来た」というところで一気に筆で押さえ込む。龍は他の生き物とは違うので、つかまえ方も違うらしい。
私はこの話を『百日紅』という漫画で読んだので、これが本当にもとは唐の物語なのか、杉浦日向子が作った話なのかは知らない。だが、何であれつかまえがたい対象をつかまえようと苦心したことがある人には、これは思い当たる話ではないか。
フーコーは、彼の語ることばを字義通りに追っていって、それを整理して分かりやすく語れば、中心に到達できるような思想家ではない。頭でこね回すと彼の思想は萎えてしまい、枯れてしまう。そしていざつかまえたと思っても、伝え方がまた難しい。ばか正直に彼の言葉をくり返しても何も伝わらないが、かといって勝手に要約すると、彼自身の選び抜かれた表現と叙述の順序を全く生かせない。筆先でかき回せば弱ってしまうのだ。
だからひたすら待つしかない。つまり、フーコーについて書くには十分な時間が必要なのだ。かといって、もちろんただ時間を過ごせば何か出てくるというものでもない。だが不思議なことに、全然別のことに関わっているとき、遠く離れた場所にいるときに、彼の方から自分に近づいてきたとしか思えない瞬間がある。もちろんこういう幸運はそう何度も訪れるものではないのだが。
また、これとは別にフーコーの著述を集中して読んでいるときにも、彼の思考がとても近くに感じられるときがある。こういう場合に起こる独特の感覚、今までうまくつながっていなかった事柄がつながるとともに、自分の思考回路にフーコーが入り込んでくるような感覚が訪れた瞬間に、その思考をかたまりのまま一気に押さえ込んでゆければ、フーコーの核心に迫ることができるような気がする。
そう考えると、この本はまだまだ習作にすぎず、龍のしっぽすら描けていないかもしれない。それでも、フーコーを読むことの楽しさと難しさが少しでも読者に伝われば、それで十分だ。簡単でないことを簡単ではないと、多少とも分かりやすく示すこと。フーコーを読むのはたいへんな作業だが、同時にとても楽しいということ。もしそれを伝えることができたなら、この本を書いた意味はあったと考えている。
新書ブームのせいか、ここ数年新書の出版点数は無数と言っていいほどで、それが瞬く間に消費されてゆく。その中には、本当は難しいことを簡単だと言い張るような本も多い。私はこの本で、複雑で難解な事柄を勝手に簡単な別のものに変えてしまわないで、それでも取り付くきっかけがあることを示したいと思った。それを通じて本書が、消費されるべくして消費される一冊ではなく、知られることは少ないが、これまでも書かれてきた「消費に抗う」書物、許しがたい事柄への抵抗を呼び覚ます書物の一冊となることを願っている。
はじめに
Ⅰ フーコーの世界へ
第1章 価値を変えろ!
第2章 フーコーはなぜ「監獄」を選んだのか
Ⅱ 身体刑とその批判
第3章 『監獄の誕生』はそれほど突飛な書物ではない
第4章 身体刑は変則的でも野蛮でもない
第5章 啓蒙主義者は旧体制の何を批判したのか
Ⅲ 規律権力
第6章 啓蒙主義か規律か
第7章 空っぽの頭と自動機械
第8章 規律はどこから来たのか ──フーコーの系譜学
Ⅳ 近代国家と統治
第9章 規律、ポリス、近代国家 ──「知」から近代を見る
第10章 国家理性について
第11章 非常事態の政治か、日常の政治か ──主権と生権力を考える
Ⅴ 監獄ふたたび
第12章 監獄の失敗は何の役に立っているのか
第13章 冷血でも熱血でもなく ──監獄情報グループ
終 章 フーコーのリアルと、彼をつかまえにゆく方法
注
参考文献(付 読書案内)
あとがき