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藤原さと×星野俊樹「不安の時代に教育ができること」(前編)

記事:平凡社

星野俊樹さん(左)と藤原さとさん(右)。東京・本屋とキッチン よりまし堂のトークイベントで。
星野俊樹さん(左)と藤原さとさん(右)。東京・本屋とキッチン よりまし堂のトークイベントで。

左:藤原さと著『こどもと民主主義をつくる』(平凡社)、右:星野俊樹著『とびこえる教室』(時事通信社)
左:藤原さと著『こどもと民主主義をつくる』(平凡社)、右:星野俊樹著『とびこえる教室』(時事通信社)

不安は、教育を商品化する

星野俊樹(以下、星野):今日の対談のテーマは「不安の時代に教育ができること」ですが、そもそも、誰の不安なんだろう? と考えてみたいんです。それは子どもの不安でもあるし、親の不安でもあるし、教員の不安でもあるかもしれない。つまり、私たちはみんな不安のなかで生きているのではないでしょうか。

 以前、私は東京都心の高所得層が多く暮らす地域に住んでいたことがあります。ある日、ポストに『子どもをCEO、弁護士、医者に』と謳う塾のチラシが入っていました。その地域では、子育ての「成功」のモデルが、子どもをその三つの職業に就かせることなんですね。将来の不安を埋めるために、いろいろな「教育」が商品になっていく。不安は金になるんです。

 包括的性教育ってありますよね。人権教育に基づいた性教育のことですが、Xで、小学校受験をさせる親のこんなポストがありました。「息子が将来、セクハラで訴えられたり、炎上したりしたら人生が詰む。成功させるためにも、ジェンダー教育や包括的性教育は受けさせたほうがいい」。それを見たとき、子どもが社会的に「終わってしまうんじゃないか」という不安から、包括的性教育までがある種の「たしなみ」になってしまったんだと思ったんです。「子どもを成功させるための包括的性教育教室」みたいな塾まで出てきかねない。

藤原さと(以下、藤原):私たちが本来やらなきゃいけないことは、不安から目をそらすことじゃなくて、不安にきちんと向き合うことなんですよね。ただ、不安に向き合うのって、そんなに心地よいことではない。「うちの子、成績もよくないし、中学受験どうなるかしら」と思ったときに、たとえばSNSやYouTubeで子どもが受験で成功している保護者の発信を見たりする。それは、不安に向き合うというより、不安から目をそらすことになっているように思うんです。そういった発信で見た「こうすればいい」「ああすればいい」は、本当の解にはならないんですよね。

星野:本来だったら、公教育には、そういう不安に飲まれない防波堤として子どもたちを守る役目があるように思うんです。でも今、公教育は本当にその役割を果たせているのか。たとえば高校の学校案内やホームページを見ると、教育方針として、対話スキルやコミュニケーション能力、21世紀型能力、ICTスキルなどが掲げられていることが多い。もちろん、働かなければ生きていけないから、そういう力も身に付けなければいけない。でも、その前に、人権や尊厳に関わる教育だったり、民主主義を支える市民として子どもたちを育てるような教育だったりが優先されるのではないでしょうか。ここをスキップして、資本主義で求められている「スキル」を身に付ける、食いっぱぐれのない主体を育てる教育に傾いている気がしています。

藤原:今はいろいろな経験がお金で買えるようになっていますよね。大学受験で、総合型選抜に受かるための面接やエッセイ、プロジェクトのための塾に多くの生徒が通っているというため息を高校の先生から聞くことも少なくありません。「何かの賞を取りました」「ビジネスで成功しました」といった経験も、本人の努力だけではなく、お金をかければ得られるものが増えている。そうした経験を評価して入学させれば、結局、経済力のある家庭ほど有利になる構造を助長してしまいます。大学側も、新自由主義的な価値観をそのまま受け入れない形で選考することを考える必要があると思っています。本来、入試に持ち込んではいけないものまで持ち込まれてしまうと、教育そのものが変わってしまう。これはアメリカでも問題になっています。

星野:アメリカではどういう問題が起きているんですか?

藤原:アメリカの大学の入学では、学校の成績やSAT(大学進学適正試験)などの学力テストに加えて、賞を取ったり、課外活動をしたり、エッセイを書いたりが一つのパッケージになって選抜されます。ほとんどの大学でその方式が採用されているので、ある種の多様性のなさがあるんです。たとえば「タイガー・マム」という言葉がありますが、大学受験で評価されるような経験を、子どもが小さい頃から積ませようとする。マイナースポーツなら賞を取りやすいからやらせようといった具合に、親が子どもの経験を受験のために組み立てていくんですね。

 日本でも、今は一般受験だけではなく、推薦入試や総合型選抜が増えて、大学への入学ルートは多様になってきました。ある意味、アメリカより入試が多様でいい状況とも言えます。ただ、こうしたアメリカ型の選抜のあり方を無批判に真似し、受験で評価されるような経験を小さい頃から積ませたり、賞や課外活動などを受験のために組み立てたりするような考え方が、日本にもどんどん入ってきている感じがあるのは悩ましいことです。

「失敗できない」学校が、抑圧を生む

星野:子どもを最短ルートで、しかもニッチな分野でハイパフォーマーにさせようとする。それは、子どもが失敗する権利を親が奪っているということでもありますよね。

 私は小学校の現場に20年いましたが、大人、つまり教師が失敗する権利を保障されていないと、教師は子どもが失敗する権利を保障できなくなるんです。初任校の校長は、授業は静かに行われ生徒たちが集中していなければならないという教育観を持っていたので、子どものための授業というより、校長にとっての「成功した授業」をつくることが目的になってしまいました。そういう抑圧的な構造があると、教師が失敗できず、教師が子どもを失敗させられず、学校全体が「失敗が許されない」状況になっていくんですよね。

 今、新しい教育や主体性を重視する方向に学習指導要領も変わってきているじゃないですか。子どもが学校のつくり手になることの重要性が謳われるようになりました。その一方で、自治体が決めた「教育スタンダード」もある。たとえば、「座るときはグー、ペタ、ピン」。手はグーにして、足はペタンと床につけ、背中をピンと伸ばす。子どもが主体的に学ぶことを掲げながら、現場では、子どもは放っておくと収拾がつかなくなるという前提で、細かな行動まで統制しようとしている。国が示す学習指導要領では先進的な教育のビジョンが語られている一方で、現場には不安に追い詰められ、失敗さえ許されないような状況があります。

藤原:南米の教育者パウロ・フレイレは、抑圧は連鎖していくと考えました。たとえば、教員はタスクが多すぎて、カリキュラム・オーバーロードに苦しんでいます。しかし、教員は、対抗するための手段や支えが十分に与えられず、そもそも忙しすぎるので、結局、この状況を我慢している。そうした教室の子どもたちは、教員自身も多すぎると感じている量のカリキュラムと古い教授法を押しつけられます。そのような教室がある一方で、私学だったり、文科省の研究開発校になったり、大学の研究と連携して、自由なカリキュラムを組んでいる学校もあります。そういう支援がある教室や学校が、先行事例として取り上げられ、褒められる。これは教室で起きていることにもつながっていると思うんです。家庭で宿題を見てくれる人がいる子が、「勉強ができるね」と評価される。一方で、家できょうだいの面倒を見なきゃいけないとか、勉強ができなくて苦しいのに誰からもサポートを得られない子もいる。そういう子は、だんだん成績が下がっていって、「できないのは本人の責任だ」と言われてしまう。

 つまり、大人の世界で起きていることと、教室で起きていることは相似形なんですよね。だから、その抑圧の連鎖をどう断ち切るのかということを、本気で考えていかないと、いつまでも止まらないと思うんです。

星野: 最近、改めて読んだ、『脱いい子のソーシャルワーク』(現代書館)という本があります。副題は「反抑圧的な実践と理論」。さっき出てきたフレイレの考え方ともつながるんですが、権力関係の上にいる人が、抑圧的な構造に対して我慢しながら適応して「いい子」でいようとすると、今度はその我慢や適応を下の人にも求めるようになる。この本が言っているのは、そういう構造に対して、みんなで声を上げていこうということなんです。「苦しい」「つらい」「無理だ」と言っていい。「いい子」というのは、構造に問題があっても我慢して、声を上げずに適応してしまう主体ですよね。日本の道徳教育は、子どもたちを、そして私たち自身をも、長いあいだそういう主体につくりあげてきたのではないかと思うんです。

《後編に続く》

撮影:岩下結
構成:吉田真美(平凡社)

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